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死んでみたい



サンダーバード

確か、テレビの「サンダーバード」だった。
西暦2065年。
遭難した宇宙船を助けようと、国際救助隊のサンダーバード号は宇宙へ飛び立つ。
宇宙空間をさまよいながら捜索している内、計器類が故障し操縦不能となり地球からドンドンと離れていく。
地球からの交信は途絶え、全く位置が判らない。
やがて、サンダーバード号のエンジンが停止し、真っ暗な世界にぽつんと取り残される。
徐々に船内の空気は薄くなってくる。
スコット隊長以下乗組員たちは為すすべもなく、ただ窒息死するのを待つのみだ。
一体、結末はどうなるのだろうかと固唾を飲んで観ている。
乗組員のひとりが絶望しながら、暗黒が広がる船外を見る。
なんと、外に小鳥が飛んでいるではないか。
乗組員全員、外を見る。
「外には酸素があるのではないか」
そうなのだ。サンダーバード号はな、なんと酸素のある宇宙空間に達していたのだ。
なんじゃ、この結末は。
この後、どうして地球に帰還したか、くわしくは覚えていない。
計器類を修理したとか、地球からの交信が通じたとかで無事に地球に戻ったのだろう。
物語の結末はともかく、この時、中学生のボクの心にぼんやりとした疑問が残った。
宇宙の果てについてである。
宇宙は想像すると気が遠くなるほど、広大だ。
それ故、巻き尺や物差しでは測れないので、光の早さを用いたりする。
光は1秒間で地球を7周半もする。
すなわち、秒速30万キロメートル。
太陽までの距離はというとこの光の早さでも8分19秒も掛かる。
北極星まではというと何と400光年なのだ。
今見ている北極星の光は関ヶ原の合戦の頃の姿を見ていることになる。
宇宙の広さはそんな尺度さえも通用しないほどだ。
何万光年や何億光年の星座がある。
そして、その宇宙は今なお大変なスピードで膨張しているという。
だが、そこには誰もが持つ疑問がある。
膨張している宇宙の向こう側は何かということである。
それは暗黒が止めどもなく続く世界かもしれない。
水に覆われた世界であるかもしれない。
もしかして、ゼリー状の空間があるかもしれない。
しかし、そのまた先には、何かがなくてはならない。
「アホ、違うんや。それは人間が考える範囲にはいつも限りがあるから、そう考えるのであって、宇宙には限りはない。つまり、永遠ということや」
と言われると、うなずくしかない。
しかし、この「永遠」はどうしても理解出来ない。

この疑問は中学生以来ずっと、そして50歳前になってもボクの悩みの種である。
宇宙の果ては必ずある。
が、その果ての向こうも必ずある。(と思う)
そう考えていると、自分自身の存在自体が曖昧になり、判らなくなる。
一点の疑問から、存在が徐々にぼやけてくるのである。
一体、自分は本当にいるのか。
ボクたちの生命は「死」という限りを持っている。
しかし、「死」という限界の向こうは「無」ではないのではないかと思うのである。
今こうしてボクが持っている意識は本当に無になってしまうのだろうか。

今、日本の死刑は絞首刑で行われる。
死刑囚は後ろ手に手錠をかけられ、目隠しをされ、床板がふたつに割れる処刑台に立たされる。
合図とともに床板が開き、死刑囚は落下する。
死刑囚の身体は地上15センチの空中に吊り下げられたまま、絶命するまで痙攣する。
医師が脈と取り、心音を聞き、15〜20分後に死を確認する。
教誨師は死刑囚が死刑執行を言い渡されてから、死に至るまで立ち会う。
ある教誨師は吊り下げられている死刑囚を目の前にして、「今さっきまで、遺書を書き、家族のことを話しているこの人間の意識は一体どこへ行ってしまうのだろう」と考えたそうだ。
本当に「無」になってしまうのだろうか。
科学者は言う。
脳への血流が停止し、脳の各細胞に送られる酸素は途絶え、意識を支えている微電流の往来は無くなる。故に、何も感じられなくなる。
果たして、それは本当なのか。

「臨死体験」(立花隆薯)という本がある。
九死に一生を得て意識を回復した人は、少なからず不思議な体験を告白する。
「三途の川を見た」、「お花畑の中を歩いた」、「ベッドの横たわる自分を部屋の空中から見下ろした」、「死んだ人に出会った」とか。
臨死体験と呼ぶのだが、これは死の領域に入り込んでの体験なのか、それとも生きている脳が起こす幻覚作用なのか。
本は800ページにわたり、徹底的に検証する。
が、結論はこうである。
「解らない」
どんなに体験を並べ上げても、解るわけはない。
死んだ人間は戻ってこないし、生きて帰った人間はやはり生きていたのだ。
当然のことだが、世界には63億の人間がいるが、誰一人として「死」そのものを経験した人間はいない。(はずだ)

宇宙の境の向こうは解らない。
生命の向こうにある「死」は解らない。
解らない尽くめだと、今生きているらしいボクは一体何なんだろうと考えてしまう。
今、目の前にある、机もパソコンも窓も扇風機も、本当に「ある」のか。
今、「金ブン通信」を見ている君は存在しているのか。
やはり、「解らない」ということである。

「トゥルーマンショー」という映画があった。
ジム・キャリー扮する主人公のトゥルーマンは生まれた時から、あるテレビ番組の主人公で、その生活は全世界に放映されている。
買い物をする時も、食事をしている時も、寝ている時さえも、すべての私生活がブラウン管に映し出されている。
家族・友人・恋人も通りすがりの人も、トゥルーマンを取り巻く人たちすべてはその演技者で、知らないのは彼だけである。
彼が住む町の全部は作り物で、海さえもこの番組の為に作られている。
つまり、彼が目にするものはすべて、作られた世界なのだ。
この映画を見終わった時、「ひょっとしたら、そうかもしれない」と思った。
ボクが見て、聞いて、感じている部分だけが存在していて、それ以外は「無い」のかもしれない。
ボクが感じているもの以外の、山も、河も、海も、街も、それに歴史も。
「じゃ、歴史に出てくる紫式部も、ヒトラーも、坂本龍馬も、本に出ているのに無いということなのか。和歌山の海も、富士山も、東京の街も、テレビに写っているのに、無いということなのか」と言うだろう。
そういうことかもしれない。
そう言うあなたも、「無い」のかもしれない。
「無い」ものに向かって、ホームページを作っているのは可笑しいと言えば、可笑しいことだが。

死んでみたい。
別に今の現実が嫌だからではない。
生きることは楽しいことばかりじゃないが、逃れたいと思うほど嫌ではない。
だが、「死」というものを経験してみたいと思う。
死んだときに、宇宙のこと、生命のこと、すべてのことが目から鱗が落ちるごとく、はっきりと理解できるのかもしれない。
そうだったのか、宇宙の果てはこんなふうになっていたのか、と解るのだろう。(そうならいいなぁ)
だから、一度死んでみたい。
もちろん、落ちた鱗を拾って、生の領域に帰って来られないと嫌だが。