「少し、腹が空きましたね」
栗野君が言うので時計を見ると、まだ11時15分である。
昼飯には、少し早すぎないか。
確か、栗野君の朝ご飯は菓子パン一個と牛乳だと言っていた。
沢良木さんはというと、昨日の残りのカレーを温め直して、たっぷりと食べてきた。
でも食べようと思えば、食べられないこともない。
早飯をすると夕方に腹が空いて、後の飯のリズムが狂うことになる。
昼飯というのは11時何分ぐらいなら、罪にならないのだろうか。
11時前はやっぱり朝食になる。
何故なら、喫茶店の多くはまだモーニングサービスをしている。
「もう少し、先にしましょう」と年上の沢良木さんが結論を出す。
先ほどの栗野君の「少し、腹が空きましたね」の「少し」は余分なようで、11時を回ったところで、完全な空腹になっていたようである。
何故なら、その時目の前に現れた寿司屋の看板を物欲しげに見つめていた。
「寿司定食、850円」
陳列に見本が乗せてある。
寿司にミニうどんがセットされているのだが、いかにも量が少ない感じがする。
あれでは、大メシ食いの栗野君の空腹を満たすことは無理である。
ここで焦って、将来有望な栗野君の人生を誤らせてはいけない。
歳とっているだけとはいえ、昼飯の先導役を拝命した沢良木さんは使命に燃えるのであった。
空腹で寡黙になる栗野君と歩を進める。
そこに、喫茶店が出現した。
喫茶の文字に軽食が付いている。
栗野君はそれを見て、沢良木さんに目で合図を送る。
しかし、ここに「ランチ」なるものがない。
この喫茶店は珈琲・紅茶類で勝負しているのであって、あえて定食ものは置いていないようである。
カレー・ピラフ・サンドウィッチ程度が軽食なのであろう。
カレーやピラフにしても冷凍ものをチンするだけだろう。
いくら空腹とはいえ、こんなところで妥協していては、前途揚々たる栗野君の将来に汚点を残すことになりはしないか。
時計はまだ、11時40分を少し回ったところである。
よくあるではないか。
食べ終わった後で手ごろな店が見つかり、たたらを踏むことになったりする。
そんな後悔をしてはいけない。
さらに、行進をする。
が、ここから古びた住宅街になった。
店舗らしきものは全く見あたらない。
ぽつんとクリーニング店があり、その横に駄菓子屋があった。
こんなところで、駄菓子を食べている場合ではない。
探し物は求める気持ちが強いと、見つからないものなのだ。
さらに、行進を続け、レストラン・食堂なるものを求めて歩く。
「ふうん、無いですね」
20分程歩いたところで、栗野君がか細い調子で言う。
その言葉には「さっきの寿司屋か軽食喫茶で食べていれば良かったのだ」という気持ちが含まれている。
店舗探索を一任したばかりに、えらい目にあってしまったという後悔の念にかられているようである。
まだ、12時ではないか。
世間一般にはちょうど昼食にかかる時である。
さらに20分程歩いた。
と、その時、前方に店舗らしき看板が見えた。
おお、やっと、見つけたぞ。
水を求めて、砂漠を彷徨してきた部隊はやっと、オアシスにたどり着いた。
が、そのオアシスは古びたのれんを掲げた「一膳メシ屋」であった。
ファミレスやファーストフーズが飲食業界に幅を利かせている中、細々と生きながらえていたのである。
今や絶滅の品種と言ってもいい。
紙芝居やロバのパン屋は消滅し、風呂屋は街から消えた。
それでも「一膳メシ屋」はひっそりと生きていた。
トキは絶滅したのに、「一膳メシ屋」はこんなところにいたのか。
オイオイオイ…。(泣いている場合ではない)
店の名は「むつみ」。
なんと、汚い店であろう。
「やっと、昼飯にありつけそうですね」
栗野君は安堵の表情を浮かべ、「食事処」と書かれたのれんを見つめる。
「うん」とうなづくと、沢良木さんは絶滅品種がどんな生態をしているのかを調査すべく、決然とドアを開けたのである。
前掛けをしたおばさんが沢良木さんたちをみる。
おばさん歴30年は過ぎているようである。
どこか、菅井きんに似ている。
「いらっしゃいませ」と間延びした一言。
2組の先客がいた。
作業員風の2人と近所のオジサン風のひとり、それにサラリーマン風の沢良木さんたちが加わった。
店内は4人掛けのテーブル席が6つ、出来上がった料理を出すカウンターの横に 「一膳メシ屋」ならではのおかずが雑然と並べられている。
「一膳メシ屋」では、メインディッシュ(トンカツ・ハンバーグ・オムレツ・天ぷら)一皿と小鉢(煮物・冷や奴・酢の物など)一皿をとり、みそ汁とご飯を注文するのが常道である。
だが、メインディッシュ一皿では物足りない時は、二皿取るという愚行をしてしまう。
さらなる愚行はここでサラダや小鉢など付けてしまうことである。
それぞれのおかずには値段が付けてあるのだが、メインディッシュは250円から400円、小鉢は150円から250円となっている。
ひとつひとつ見ると安い が、みそ汁(100円)とご飯(180円)のことを忘れている。
メインディッシュを2皿に小鉢を付けてしまうと、それだけで650円に達してしまう。
これにみそ汁とご飯を足すと、900円を超える。
食べ終わって勘定を聞いたとき、そんなはずはないと思ったりするのだがもう遅い。
店内には定食も用意されていた。
トンカツ定食、ハンバーク定食、ミックスフライ定食、焼き魚定食などなど。
どれも650円とリーズナブル価格だ。
一品づつおかずを取るのが個人旅行とすると、定食は団体旅行だ。
団体旅行は乗り物、旅館、食事、観光スポットがセットされていて、あれこれと煩わしい手間がいらない。
それに安価である。
腹を空かした栗野君は入るなり、菅井きん似のおばさん(以下、菅井と呼ぶ)に、「ゴハン大とみそ汁」を所望した。
一刻も早く、空腹を満たしたい模様。
オムレツの大皿と一口カツの大皿を持って、席に着いた。
人は必ず、食べ物の前で幸せな顔になる。
栗野君の顔も今までの愛想のない顔から、少し笑みを含んだ顔になっていた。
でも大皿が二つだから、みそ汁とご飯を付けて、700円の大台を超えている。
沢良木さんは団体旅行の方を選んだ。
それも、景勝地観光に、美術館見学、テーマパーク見学や体験などが付加され、バラエティに富んだ「ミックスフライ定食」にした。
菅井は「はーい」と間延びした返事した後、厨房にいるシェフに「ミックスフライ定食一丁」と伝えた。
厨房の中ではシェフが皿を洗いながら、「へーい」と間延びした返事をする。
ここのシェフは皿洗いも兼ねているようである。
どこか、画家の岡本太郎に似ている。(以下、岡本と呼ぶ)
沢良木さんはカツにかぶりつく栗野君を恨めしげに見ながら料理を待った。
この店は夕方から飲み屋に変わるらしく、つまみ類のメニューが貼ってある。
飲み屋にはあまり力を入れている様子はなく、メニューは10点ほどしかない。
おそらく、近所のなじみ客が夕方から現れて、ワイワイとやるのだろう。
菅井や岡本も商売を離れて、客の輪に加わるのかもしれない。
どうも、菅井と岡本は夫婦のようで、店の名である「むつみ」はどちらかの名前なのであろう。
沢良木さん達の座っているテーブルの横に、一品100円のおでんがあった。
大根、厚揚げ、ごぼてんが見える。
かなり煮込んであるのか、大根は茶色に変色している。
ダシは継ぎ足し継ぎ足しして使っている秘伝の味である。(たぶん)
「おでんがあるな」と沢良木さんが何気なく言うと、栗野君は「はあ」と言いながら、おでんの入れ物を覗く。
それを聞いていた菅井が急に「ダシが滲みて、美味しいよ」と商売気を出した。
余計なことを言ったと思ったが、遅かった。
菅井はおでんの入れ物に長い箸を入れて、おでんを並べ替え始めた。
「うちの人気商品なんよ」とまたまた、商売気を出す。
「美味しそうやないですか」と食べている栗野君が余計なことを言う。
余計なことのお陰で、何か注文を強いられたボクは「そんじゃ、厚揚げとごぼてんを」と余計な注文をしてしまった。
団体旅行に急きょ、行きたくもない伝統工芸見学のオプショナルツアーが追加された。
これで定食に200円、余計な数字が加わるのである。
おでんは味が滲みて、なかなかいける味である。
意外にも、伝統工芸は見応えがあった。
「なかなか、美味しいな」というと、菅井は満足気であった。
「おでんの東で食べているから、<オデンの東>やな」
と沢良木さんは洒落を言ったが、<エデンの東>の映画を知らないのか、無視されてしまった。
厨房では岡本太郎が忙しそうに動いている。
何故そんなに、時間が掛かっているのだろう。
やっぱり、個人旅行のほうが良かったかなと思いながら、沢良木さんは他の客に目をやる。
作業員風の男たちは食べ終わってスポーツ新聞を読みながら、爪楊枝でシーシーやっている。
近くで建築関係の工事をやっているのだろう、作業服がえらく汚い。
その汚さが店の雰囲気とマッチしている。
近所のおじさん風の男が「お愛想」と言って、立ち上がった。
おかず大皿と小皿とみそ汁、ご飯で、合計680円であった。
まだ、定食は出来上がる気配がない。
暇なので、机の下から週刊誌を取り出す。
「週間女性」と「アサヒグラフ」があった。
「週間現代」「週間宝石」などのアダルトものがないのが少し寂しい。
パラパラと「週間女性」を見る。
「雅子さま、懐妊の兆候か!?」
何、何なんだ、何年前の記事だ、これは。
なんと、平成10年の3月号であった。
「ハイ、あがり」と厨房から岡本の声が掛かる。
四角い一口カツ、サーフィンボードの形をした魚フライ、エビフライ、イカリングの4品乗った大皿が差し出された。
一つ一つは小振りだが、なかなかのボリューム感がある。
キャベツみじん切りとポテトサラダが量感を支えているようだ。
団体旅行でいえば、往復飛行機やホテルに、遊覧船観光、窯元めぐり、天然の名湯、お土産付きみたいなバラエティに富んだ旅である。
待った甲斐はあった。
だが、ポテトサラダに問題があった。
実は沢良木さんはタマネギが嫌いなのだ。
小さいときから野菜嫌いであったが、タマネギだけは大人になっても食べられない。
タマネギが入っているかどうかは、長年の経験からそれを箸でつまむだけで判る。
少しつまむと、タマネギは糸を引いたように、細くなって付いてくるのである。
タマネギが入っていたら、残すのはもったいないから、栗野君に食べてもらおう。
あわよくば、トレードをしてもらおう。
ポテトサラダはチームでいえば、中堅選手。
巨人で言えば、元木や二岡クラス。
トレードに出すのだったら、小さめでもいいから一口カツを取りたい。
つまり、桧山や今岡クラスと変えたい。
だが、相手が足元を見て、イカリングを要求してくるかもしれない。
つまり、藪クラスを要求してくる。
それではこちらは損をする。
広沢クラスで我慢してくれないか。
と、あれこれ考えていたが、栗野君はもうほとんど食べ終わっており、トレード要因はいなかった。
だが、幸いなことにポテトサラダにはタマネギは入っていなかったのだ。
エライぞ、岡本太郎。
星3つとはいかないが、取りあえず星1つは進呈しようじゃないか。
全体にソースをかけてから、まず、一口カツを食べる。
ヒレトンカツである。柔らかい。
ワカメのみそ汁からご飯に移り、ポテトサラダへいってから白身魚のフライへ。
サクッとした歯ごたえ。
場末の一膳メシ屋にしては上出来だ。
星をもう一つあげても良いのではないか。
マヨネーズの掛かったエビフライへ進み、キャベツのサラダをつまむ。
キャベツのみじん切りは大皿における専有面積が多い割に、主役にはなれない。
キャベツはその辺が腑に落ちないようである。
トンカツ定食やチキンカツ定食など、どのドラマにも出演するのだが、主役になることはない。
いつもカツやハンバーグなどの脇役である。
「野菜も食べないかんよ」とお母さん方の後押しがある時はいいが、時折お皿に寂しく残されたままということも経験している。
だが日頃、刺身に付いてくる「けん」よりはましだと思っている。
それに取り残されるのが常である「パセリ」にも同情したりしている。
キャベツはこれらとは営業姿勢が違うと自負している。
大体、「けん」や「パセリ」には努力が足りない。
「けん」は「けん」だけ、「パセリ」は「パセリ」だけである。
キャベツは気に入られるために、ニンジンやピーマンの力を借りて色気で勝負しているのだ。
それにドレスで着飾っている。
これを野菜業界では「ドレッシング」と言ったりしているが。
そんなキャベツの努力を無にしない為に、沢良木さんはキャベツのみじん切りを余すところ無く食べる。
栗野君はすでに食べ終わっており、満足そうにお茶をすすっている。
残っているのはイカリングである。
エビに掛かっていたマヨネーズと一口トンカツに掛かっていたトンカツソースが少し残っている。
それにイカリングをたっぷりと付けた。
輪にマヨネーズとソースがベッタリと付いて、イカにも巧そうである。
沢良木さんはガブリとかじる。
うっ?
テレビだったらここで、<この後、衝撃的な結末が>となって、CMになるのだが。
歯ごたえがない。
ベチャとした歯触り。
それはタマネギだった。
計りおったな、岡本太郎。
沢良木さんは慌てて、お茶を飲むのであった。
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