競馬記者の矢野さんは気さくな人だった。
「エイシンプレストンがいいなと思うのですが」
ボクはここに来るまで、電車で予想をしていたことを言う。
「結構感触は良いと思いますよ」と矢野さんは同調してくれたので、ほっと一安心。
その日は秋の天皇賞で、ターフィー号に乗り込むことになった。
ターフィー号とは京阪電車が運行しているイベント電車のことだ。
淀屋橋駅発で、守口市駅を過ぎると京都競馬場のある淀駅までノンストップ。
その間、車掌のマイクを競馬記者が使って、その日のレース予想を放送する。
つまり、早く着くというメリットにさらに、競馬予想のおまけが付いている。
我が社がこのイベント電車を運営している。
運営していると言っても、競馬記者を電車に乗せ、車掌台に案内するだけのこと。
案内役には社員が交替で行う。
その役割が今回ボクに回ってきたのだ。
記者と淀屋橋駅で待ち合わせ、地下の喫茶店に行く。
そこで、記者に本日の日当を手渡す。
「エイシンプレストンも良いですが、やはり、テイエムオーシャンが軸になるでしょうね。中山は流れが早いぶんこの馬に合うそうです」
矢野さんは珈琲を飲みながら、気軽に自分の予想を話した。
記者に会う前は少し不安だった。
競馬記者というのは気難しい人ではないかという不安である。
ニヒルなギャンブラーで、口数が少ないタイプを想像していた。
その心配は無用だった。
普通の30歳前後の青年である。
ネクタイにスーツ姿は「スーパーに勤めています風」なのだ。
それに矢野さんは尋ねたことに、気軽に答えてくれる。
「この予備収入は助かるんですよ」と日当の領収書にサインをしながら、微笑む。
依頼しているのは競馬専門誌の競馬記者で、各誌が持ち回りで担当している。
矢野さんはホースニュースに勤めている記者である。
ブランケット版で一面はカラー刷り、右上に馬の白抜き文字がある。
頻繁に競馬をすることがないボクはこんな新聞があるのを知らなかった。
後でその新聞をいただいたのだが、矢野さんは「矢野の矢 当た〜りぃ」というコーナーを顔写真入りで担当しておられた。
「専門誌の記者って、給料が安いですからね」と矢野さん。
踏み込んで幾らくらいなのか訊けなかったが、まさか我が社の30歳前後の社員よりも安くはないだろう。
9時前に喫茶店を出て、淀屋橋駅の一番大阪よりのホームに行き、9時5分発の電車が来るのを待った。
「しかし、楽しそうな仕事ですね」
ボクは一番言いたかったことを言った。
競馬の予想を仕事にするーこんな楽しい職業があるだろうか。
競馬ファンなら、誰もがあこがれる職業だろう。
「みんな、そう言いますね」
矢野記者はベンチに座りながら、笑っていた。
否定をしないところをみると、楽しいのだろうと思っていると、
「苦労も多いですけど、楽しいですよ」とやっぱり、否定しない。
「学校を出て、今の会社に勤めはったんですか?」
「いや、転職したんです」
競馬記者になる前は全く競馬とは関係のない仕事をしていたそうだ。
ホースニュース社が競馬記者を募集しているのを見て応募し、難関を見事パスしたという。
「試験って、馬の血統とか過去の戦績とかが出るんですか?」
「いや、そんなくわしい内容は出なかったです。常識的なことしか」
常識的なことがどの程度かは判らないが、以前から競馬が好きだったに違いない。
ターフィー号となる折り返しの電車がホームに着いた。
ボクたちは一番後ろの座席に乗り込んだ。
車両には15人ほどしか乗っていない。
矢野さんはその中に先輩記者が乗っているのを見つけて、苦笑いされていた。
その先輩記者もこちらを見て、笑っている。
「あの人は津田さんと言って、今我が社が売り出している記者なんです」
そう言って、手に持っているホースニュースの一面に載っている津田記者の記事を見せてくれた。
顔写真が「栗東だより」の記事とともに、題字の下の目立つところに掲載されていた。
なかなかいい男だ。
「やりにくいな」と再び、苦笑い。
先輩記者に自分の予想を聞かれるのは恥ずかしいらしい。
「初めて競馬場に来たのは小学生の時なんです。オヤジに連れられて」
車内放送が始まるのは守口市駅からなので、その間、矢野記者はボクの横に座って話す。
「中学生の時は小遣いで馬券を買ったりしてました」
「競馬が合っていたんですね」と言うと、
「成人してからはほとんど毎週競馬をしていましたし、栗東に馬を見に行ったりしたことも。まさか、仕事にするとは思いませんでしたが」
「でも、仕事にすると、やはり楽しくなくなるでしょう?」
「そうでもないですね。やっぱり、仕事は楽しいですよ。競馬は好きですから。でも、やっぱり転職するとなると、悩みましたが。給料が結構安いから」
「そりゃ、仕事が楽しくて給料が良かったら、そんな楽しい人生はないでしょ」
はっきりと仕事が楽しいと言える人をボクはうらやましいと思った。
「そうですよね」
矢野さんは2度うなずいた。
京橋駅に着くと、競馬新聞やスポーツ新聞を持ったオジサンたちが乗ってきた。
「小倉で競馬が開催される時は九州に出張するのですが、そうなると、開催期間はビジネスホテルに泊まり込みになるんです。いろいろと、出費しますよね」
「酒と女ですか」
「同僚と呑んだり、他社の記者と呑んで情報交換したりで、呑む機会が多いですね。厩舎の人や騎手ともご一緒したりしますけど」と人なつっこい笑顔を見せた。
「ほとんど、競馬の話ですよね。なんか、遊びみたいで楽しいじゃないですか。金曜日に競馬好きが集まって、確定した枠順を見て予想しているような…」
ボクは羨ましげに言う。
「それも仕事ですけど、端から見ると、遊んでいるような感じですよね。他社の記者とも競合関係にあるわけでもないですから、気軽に話が出来ますし。とっておきの情報はもちろん喋らないですが、そんな情報は滅多にありませんから」
「矢野さんは独身?」と話題を変えた。
「ええ、高槻で両親を暮らしています。出張が多いし、不規則な生活ですから、なかなか結婚できないですね。最近、結婚した同僚記者もいますけど、小倉開催期間は一緒に小倉で暮らしていましたね」
「今日は仕事ですよね」
「仕事というか、遊びというか」
「馬券は買うのですか」
「一様、自分の予想したのは買いますよ」
電車は守口市駅に着いた。
ここから、淀までノンストップである。
矢野記者は「じゃ、行って来ます」と言って、胸ポケットから原稿を取り出して、車掌台に入っていく。
「それではこれより、競馬専門記者による本日のレース予想を行います」と車掌のアナウンスで始まった。
自己紹介の後、びっしりと書かれた原稿用紙を話し言葉に変えながら読んでいく。
天皇賞は前走札幌記念に勝ったテイエムオーシャンを軸にエイシンプレストンを対抗、それにサンライズペガサス、ツルマルボーイ、ナリタトップロードやシンボリクリスエスを薦める。
これは他の記者の予想とそう大差はない。
続いて、京都開催のメインレース「渡月橋ステークス」を予想する。
ビッグフリートを本命にトーセンダンディを対抗、ボールドブライアンやテイジンオーカンを挙げる。
これも他の記者と変わらないところだが、違ったところではキングオブダンサーを薦めていた。
電車は枚方を過ぎる。
このあたりでは、マイクの声も硬さが取れてくる。
閑散とした車内では競馬新聞を片手に、乗客が車内放送を聞き入っている。(ようである)
外を見て、鼻くそをほじっている人もいる。
ほとんどは年輩のオジサンであり、その中に家族連れも2組あった。
京都の9Rと10Rの予想を加えたあたりで、電車は終点の淀駅に着いた。
今度は急行で淀屋橋駅まで戻り、もう一度11時5分発のターフィー号に乗ることになっている。
ボクたちは大阪行きのホームのベンチで急行を待っていた。
朝の10時前だというのに、となりに缶酎ハイを持ったオジサンが座っている。
「あんたら、何してるんや」と声を掛けてくる。
ボクたちが腕章を巻いているのを珍しく思ったのだろう。
朝から呑む酔っぱらいは話相手を捜していて、キッカケがあるとチョッカイを出してくる。
「ターフィー号のイベントをしているんです」とボクが素直に答えると、
「車内で予想するんやな。知ってるで」と言って、缶酎ハイをぐびっと呑む。
「競馬記者なんてやつらはええ加減なことばっかり言うて、当たりもせんくせに」
オジサンは京阪電車の腕章を巻いている矢野さんを京阪電車の乗務員と勘違いしているのである。
「好きなこと言いよって、全然当たらへんがな。あいつらの言うことは」
オジサンは何やら、ご立腹のようで、競馬記者の悪口を繰り返す。
ボクは矢野記者が怒り出すのではないかと心配したが、寛容な笑いを見せていた。
急行がホームに着くと、ボクたちは酔っぱらいとは車両を変えて乗り込んだ。
車内は馬券を買って家で楽しむ人たちが乗っているようで、半分程度の乗車率だった。
「よく、あんな人いるんです」
横に座った矢野記者がやわらかな声で言った。
「負けてはるんでしょうかね。でも、励ましてくれる人もいるんですよ。さっきの津田さんなんかは新聞に顔写真が大きく出ているから、一緒に飲みに行くと結構声掛けられてるんです」
「男前ですもんね。競馬記者って、ツライことはどんなことです?」
急行が淀屋橋駅に着くまでの間、競馬記者についてお伺いすることになった。
「やっぱり、自分の予想が外れるのはツライですね。当たらないのが続くとまた、ツライですよ」
なんか、つらくなさそうなツラサに感じるのだが、ツライのだろう。
それにしても、遊びと仕事の境目がかなり難しい職業と言える。
楽しんでいるようでもあり、苦しんでいるようでもあり。
土日はこうして競馬場まで出かけ予想した結果を見届け、馬に故障はないか、走りはどうだったかの情報を得るらしく、休みは月曜日なのだ。
仕事は火曜日の朝早くから始まる。
午前6時頃に車で栗東のトレーニングセンターまで行き、追い切りを見たり、騎手に話を聞いたり、厩舎を回ったりする。
栗東には厩舎が100程あり、20人の記者が担当の厩舎を決めて情報を収集するそうだ。
集めた情報を本社に送り、本社ではそれらをまとめて編集していく。
記者たちは次ぎのレースに出る馬の情報をおおよそつかんでいて、その情報を流してあげたりすると厩舎には喜ばれるという。
「競馬騎手はね、よく遊んでますよ。若いのに高級車乗り回していますし」
矢野さんはそう言うと、ちらっと車窓から外に目を向けた。
<遊び>は女を意味している。
「彼等はね、呑んだり食べたりの楽しみが無いんです。体重制限があるから。だから、そっちの方へ行くんです。モテるんですね、騎手というのは。馬に乗るのが巧いと、女に乗るのも巧いとか」
馬に乗るには55キロ前後の制限があって、鞍の重みを引くと50キロそこそこに体重を維持しなくてはならない。
その為、若いのに極端な食事制限をしているのだ。
武豊は騎手としては背が高いため、きびしい食事制限をしているという。
「たまに、河内さん(ベテラン競馬騎手)と飲みに行くのですが、ほとんど肴には手を付けないですね」
馬に乗って気持ちよく駈け、注目を浴びて楽しそうな職業と思っていたが、それはそれで苦労があるものなのだ。
食べたいものを食べることが出来ないなんて、やっぱりツライ。
「それに危険ですね、騎手は鐙(あぶみ)の位置が高いところにあるから、恐いですよ。かなりの早さで疾走するわけですから」
「ええ、分かります」
ボクは情報誌の取材の際、馬に乗った経験があり、その時の感触を思い出しうなずく。
鐙とは馬に乗ったときに足を置く馬具である。
乗馬の場合、足をだらりと伸ばした位置に鐙があるのだが、競馬騎手の場合は極端に足を折り曲げた位置にある。
ジェットコースターの上で立ったまま乗っているような気分ではないだろうか。
だから、落馬事故も多い。
今は息子が騎手として活躍しているが、天才騎手の福永洋一は落馬で人生を棒に振ってしまったのは鮮明に記憶に残っている。
競馬騎手たちは馬に乗る姿にあこがれ、難関をパスして騎手の養成学校に入る。
そして、厳しい訓練を経て、競馬騎手になる。
その中から、一握りの人間が中央競馬の檜舞台に上がる。
華やかな騎手たちに隠れて、調教師や厩務員たちが裏方となり、この世界を形づくっている。
矢野さんと裏方で仕事をしている人の話をしているうちに、急行電車は淀屋橋駅に着いた。
再び、11時5分のターフィー号に乗り込み、1便目と同じことを繰り返した。
11時40分淀駅に着き、矢野さんと別れ、京都競馬場へ向かった。
日曜日のターフィー号は3便あり、2便目に立ち合っていたHさんと競馬場で会う約束していた。
広々としたスタンドでHさんは新聞を広げていた。
ボクはコロッケとワンカップのお酒を持って、横に座った。
今年の秋は短く、まだ10月だというのにスタンドには木枯らしのような冷たい風が吹いていた。
一口お酒を飲むと、温かい液体が食道から胃に滑り落ち、お腹全体に滲みていく。
ほっと、解き放たれた気分になる。
この瞬間は至福である。
Hさんは二日酔いらしく、ボクが飲んでいるのを眺めているだけであった。
それにもうすでに2レース楽しんで、4000円が財布から消えたらしい。
ボクたちは競馬の予想をしながら、会社の話題にする。
上司に対する愚痴、辞めていく若手社員のこと、会社の将来…。
競馬場のスタンドという場には不釣り合いな話題だった。
ボクは矢野さんに貰ったホースニュースの競馬新聞を見ながら、当たりそうもない配当の大きな馬券を買った。
宝くじのような馬券を手に持って、馬が走っているのを見るのはなかなか楽しいものだ。
あれこれと、入りそうな馬を予想するのだが、買うのが少額であるため、高い倍率の馬券を買ってしまう。
だから、ほとんど当たらない。
当然のことだが、この日も全く当たらなかった。
9R・10R・11Rと買ったが、かすりもしなかった。
ボクはオカキをあてにビールを飲んだ後、ソバをすすった。
いつものことだが、飲み食いの合計は馬券につぎ込んだ金とほとんど変わらなかった。
Hさんは京都競馬のメインレース「渡月橋ステークス」をゲットされただが、他のレースを落とされて、貴重な小遣いが馬のエサになってしまったようだ。
中央の大きな画面に、中山競馬場の天皇賞が映し出される。
スタンドに大きなどよめきが起きる。
拍手と歓声の中で、優駿たちが駆け抜ける。
ボクとHさんの馬券はただの紙屑となり、矢野さんが推したテイエムオーシャンは直線に入っても先頭に立つことはなく、馬群に消えた。
矢野さんの予想はことごとく外れていた。
スタンドのどこかで仕事のツラサを味わっているのだろうか。
天皇賞が終わると、人の波は出口に向かって動き出す。
スタンドにひんやりとした晩秋の風が吹き抜けていった。
広い馬場の上空を真っ白な雲が浮かんでいた。
ふと思った。
馬が第4コーナーを過ぎゴール目がけて直線を駈けているように、ボクはすでにゴールが見える直線コースを駆けている。
はたして、このままゴールまで走りつづけるのだろうか。
しがらみや煩わしさに身を置きながら。
そんなことをふと思った。
そして、宝くじのような馬券を握りつぶして、人の波の中に入っていった。
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