そこは狭い畳の部屋だった。
ドアの外からは演奏しているグループの音が漏れ聞こえてくる。
僕の手は震え、足は落ち着かなく貧乏揺すりしている。
「コーラスのハモリ部分をチェックしとこか」とリーダー格の保科君が言った。
保科君がドラムのスティックを叩くと、僕たちは唄い始めた。
♪だから一度だけ、恋に抱かれた、君の、君の、暖かいハートに♪
一番高音部を唄う僕は練習どころではなかった。
リードギターのアドリブ部分が気になって仕方がなかったからだ。
<なんでリードギターなんか、引き受けたのやろう>
後悔しても遅い。
演奏時間はもう10分後に迫っていた。
中学の同級生やファン(?)たちが尼崎文化会館の観客席で僕たちの演奏を待っている。
夏休みを目前にした日、僕たちは尼崎商店街にある新響楽器にいた。
「これ、ええやんか」とギターの菊川君が1枚の譜面を取り出した。
ベンチャーズの「ダイヤモンドヘッド」である。
「アホ、ダサイやないか。それやったら、ボーカルの俺はどうすんの」と田中君が冗談と判っている菊川の言葉に、笑って反応した。
「やっぱり、タイガースやカーナビーツやで」とベースの丹野君。
「カーナビーツはボーカルがドラムやから、あかん。俺のことも考えてくれよ」と再び楽器が出来ない田中君が応えた。
カラーテレビが世に出てきた頃、派手な衣裳のグループサウンズがブラウン管を占領していた。
ゴールデンタイムにはどこかのチャンネルで必ず、グループサウンズが楽器を持って出演している。
僕たち中学生も流行の渦の中にいた。
ドラムの保科君、ギターの菊川君、ベースの丹野君、ボーカルの田中君、そしてギターの僕。
坊主頭の5人は高校受験を気にすることなく、格好良さだけを追い求めてグループを結成した。
グループ名は「ザ・ゴールデンサンダース」。
鳥肌が立つような寒〜い名前である。 (名付けたのが誰かは自分自身から言いにくい)
期末試験が終わった頃、リーダー格の保科君が僕たちに地方版の新聞切り抜きを見せた。
<グループサウンズコンテスト参加者募集>
それはヤマハ楽器が主催するグループサウンズのイベントで、アマチュアを対象にしたものだった。
「出場しよ」と保科君は牛丼でも注文するように言う。
他のみんなは顔を見合わせた。
僕たちグループは結成してまだ半年も経っていなかったし、ちょっと音が鳴らせる程度の技術だったからだ。
「ええ、まだ、無理やで」と菊川君。
「簡単な曲やったら、出来るんとちゃうか」
保科君はもう、出場するつもりでいる。
菊川君は戸惑いながらも、舞台に立つ自分の姿を思い浮かべて、気持ちは揺れる。
こういう場合は他の誰かが同調すると、物事はその方向へ傾いていく。
「面白いな。岩井君とこも出るやろ」と僕が言う。
岩井君が結成するグループは僕たちよりも前から活動していて、ビートルズのナンバーばかりをレパートリーにしていた。
そのメンバー4人のうちふたりは吹奏楽部で、後の2人もギターがうまく、レベルはかなり高かった。
「恥かいてもええから、出ようや」という保科の言葉に促されるように、他の4人はコクリと頷いた。
「おい、これなんか、どうやろ」とリーダー格の保科君がいう。
それはタイガースの「僕のマリー」だった。
「それは古いわ、新しいこれはどうや」と田中君が替わりに手にしたのはタイガースの新曲<君だけに愛を>である。
「これ、今、ヒットチャートの1位やで」
ボーカルの沢田研二が<♪君だけに>と手を前に掲げて連呼し、他のメンバーがリフレインする曲はテレビで頻繁に放送されている。
「♪君だけに、君だけに」と田中君が口ずさむ。
僕と菊川君は譜面を見つめていた。
この曲の間奏部分にリードギターのソロがあり、素人にとっては難しいチョーキングやスライドなどの奏法が織り込まれていた。
<誰がこれを弾くのか>
僕と菊川君が顔を見合わせる。
当然ギターを担当する2人のどちらかということになる。
「俺にはこのリード、無理や。金ちゃん、頼むで」
「いやや、お前の方が巧いから、リードギターはお前がやれ」
僕はタイガースのリードギター加橋かつみに憧れているものの、このアドリブ部分はとても弾ける自信はない。
「お前がやれ」と保科君は菊川君に言う。
「あかん、無理や」と菊川君は頑なに首を振る。
「でも、金ちゃんか菊川のどちらかしか無いのやから」
最終的にこれを決めたのはジャンケンだった。
舞台からビートルズの「アンド・アイ・ラブ・ハー」が流れてくる。
この演奏が終わると、僕たちの出番である。
「なんで、チョキを出したんやろ」
後悔しても始まらない。
数分後に僕たちは舞台に立って、演奏しなければならない。
僕の口は渇き、貧乏揺すりはさらに激しくなった。
「なんか、緊張するよな」と菊川君がいう。
「俺、足がガタガタしてるで」と田中君も同調する。
「おい、丹野。佐々木さん、来てるんやろ」と菊川君がいうと、丹野君は頷いた。
佐々木さんは女子バレー部のキャプテンで、丹野君のガールフレンドだった。
ふたりが付き合っていることは周知の事実である。
観客席には佐々木さんを初め、女子バレー部のメンバーがたくさん来ているはずである。
「トイレに行って来る」
僕は緊張してトイレが近くなっているようだ。
「おい、早くして来いよ」と保科君が神経質そうに声を掛ける。
僕は放心したように、トイレに向かった。
便器に向かいながら、自分が弾きアドリブを頭に浮かべ、指の動かし方を思い描く。
夏休み中、僕はこのフレーズを繰り返し練習した。
だが、自分のエレキギターを持っていなかったので、練習は中古のガットギターである。
エレキギターを手にしたのはほんの一週間前。
プロでも難しいアドリブ部分を、ギターを触って間もない中学生が舞台で演奏するには無理があった。
しかも、エレキギターとガットギターでは感覚が全然違う。
僕はもう、どうにでもなれという気持ちになっていた。
トイレを出て、漏れてくる演奏の音を聴きながら控え室に向かう。
その時、ある考えがポトリと天井から落ちてきた。
「ああ、そうや」
僕はひとり頷いた。
レコードが回転し、小さなスピーカーから甘い男の声が聞こえてくる。
♪アイ・ラブ・ユー、イエス・アイ・ドー、愛しているよと♪
「これな、加山雄三いう歌手が唄ってるねん」
山口君はレコードジャケットの写真を僕に見せた。
ギターを持った歌手が大きく写っていて、端に歌のタイトル「恋は紅いバラ」と書かれている。
「この人な、ギターを持って弾きながら唄うんやで」と自慢げに言う。
「それに、ここに作曲弾厚作とあるやろ、これな加山雄三のことなんや」
「へえ、歌唄って、伴奏して、それに作曲もするのか」
僕はシゲシゲと、ジャケットをながめた。
「それにな、映画俳優なんや。この<エレキの若大将>いう映画に主人公で出てるで」
山口君は「明星」という雑誌を広げた。
頭がくらくらするほど、格好良かった。
「それにな」
「まだ、あるんかいな」
「スポーツ万能で、スキーはプロ級なんや」
メラメラメラーッ
それは僕の顕示欲が燃え始めた音であった。
思春期には格好良くありたい、目立ちたい、女の子の関心を引きたいということが行動を決めていく。
そうありたいなぁと思うと、不可能なことと判っていてもやってみるーそれが僕の行動パターンだった。
僕はパン屋の2階に住み込んでいる従業員のガットギターを借りて、ポコンポコンと弾き始めた。
まず、ドレミファソラシドと弾いてみる。
それが出来ると、メロディを追ってぎこちなく鳴らす。
一つの曲を弾けるようになるのに、繰り返し繰り返し弾く。
次ぎはそれに合わせて歌を唄ってみる。
ギターを始めた人の90%以上は、この辺でイヤになって辞めてしまう。
なぜなら、メロディーをポロンポロンと鳴らして歌を唄ったところで、何も面白くないのである。
思春期は諦めるのも早い。
僕は一週間で辞めてしまった。
それからしばらく経ったある日、同じクラスの前島君がギターを抱えてやって来た。
ケースからクラシックギターを出すと、弦を1本1本つま弾くように奏で始めた。
それはフランス映画「禁じられた遊び」の主題曲で有名なナルシソ・イエペスの曲だった。
前島君は最後まで間違うことなく演奏した。
<すごい>
中学生がこんな曲を演奏できるとは。
僕は口をあんぐりと開け、放心したように前島君の奏でる指をながめていた。
それからすぐ、僕は母親に新響楽器のクラシックギター教室に通わせてもらうように頼み込んだ。
「また、悪い虫が付いたのか」と母親は渋々、10回つづりの練習券を買ってくれた。
その教室はギターの先生が生徒と一対一で教えてくれ、一枚の練習券で1時間練習が出来た。
練習といっても課題曲を与えられ、それを先生の前で披露し、悪い箇所を直してくれるだけである。
簡単なアルペジオから始まったギター教室も、7枚の練習券を残したまま辞めてしまった。
教則本の最後に載っている「アルハンブラの想い出」まで弾く決意だったのだが。
それからしばらくの間、ギターを手にすることはなかった。
その頃、テレビでは髪の毛を伸ばしたグループがギター、ドラムやベースを弾きながら唄っている。
グループサウンズがお茶の間のテレビを席巻し、若者達の心を捉え始めた頃である。
「あんな格好いいことをしてみたい」という気持ちが僕の中にくすぶっていた。
そして、再び僕が、ギターを手にするきっかけがやってくる。
それは偶然の発見ではじまった。
ニュートンの万有引力やアインシュタインの相対性理論の発見、はたまたコロンブスのアメリカ大陸の発見のように偶然の出来事だった。
住み込みの従業員が置いていった「平凡」という雑誌に付録が付いていた。
それには流行歌の楽譜が掲載されている。
五線の上にC、Am、Fとかのアルファベットが載っていた。
「何なん、これ」
従業員に尋ねると、コードというものだという。
雑誌が示している通りにCのコードを押さえて弦を鳴らすと、心地よい音がした。
そして、マイク真木の「バラが咲いた」を弾いてみる。
Fがなかなか押さえられないが、なんとか唄いながらギターを弾くことが出来る。
その時、何か世の中のからくりが解けたような気分になった。
コードを覚えたら、僕も加山雄三になれるという錯覚に陥ったのである。
それからというもの、明けても暮れてもコードをガシャガシャと鳴らし唄い続けた。
同じクラスに僕と同じように、ギターを持ってガシャガシャとやっていた生徒がいた。
顔中ニキビでおおわれた菊川君だった。
菊川君はコードの間にメロディーを奏でる技術を習得していて、その頃流行っていたグループサウンズの曲を弾き語りで唄っていた。
放課後、僕たちはギターを持ち寄り、いろんな曲を一緒に練習するようになった。
そこへ野球部で万年補欠をしていた田中君が加わり、僕たちのギターの伴奏で歌を唄った。
その歌は野球と一緒で、お世辞にも巧いと言えなかった。
僕たち3人は学校近くにある市の集会所を借りて、定期的に練習するようになった。
そこへたまたま集会所へ用事で来ていた保科君が僕たちの練習を横で見ていた。
保科君は吹奏楽部に所属しチューバを吹いていて、グループサウンズにも興味があるようで、僕たちの練習を聴いてあれこれと口を挟んだ。
保科君は次ぎの練習日からドラムのスティックを持ってやってきた。
しかし、集会所はエレキやドラムで演奏するのは禁止されていたため、本格的な練習が出来なかった。
都合の良いことに、保科君の家はJR立花近くで幼稚園をしており、夕方以降教室は空いていて絶好の練習場所になった。
そこへ全く楽器が出来ない、卓球部の丹野君が見学にやって来た。
その頃のグループサウンズはタイガースやテンプターズに代表されるように、5人編成が多かった。
リードギター・サイドギター・ドラム・ベース・ボーカルのスタイルだ。
ギターを弾く僕と菊川君はハナからベースなどする気はなかったので、参加したいという丹野君にベースを押しつけたのである。
丹野君はベースという楽器がどんなものか判っていなかったが、グループに参加出来るだけで満足なようだった。
これで「ザ・ゴールデンサンダース」の結成となり、それからしばらくの間、尼崎市浜田町5丁目のパン屋さんあたりに騒音をまき散らすことになるのである。
前のグループの演奏が終わりかけていた。
僕たちは係りの人に促され、楽屋を出て舞台裏に移動する。
ピックを持つ手は震え、胸の鼓動は大きな地響きを立てているようである。
頭の中は真っ白になっていた。
「さて、次ぎは中学3年生のグループです。ザ・ゴールデンサンダース、どうぞ」
司会の声に押されて、僕たちは舞台に出た。
「中学生ということですが、いつ頃結成したのですか」
係りの人がマイクやアンプの用意をする間、司会がマイクを向けて尋ねる。
ボーカルの田中君がうわずった声で応えた。
客席は夜の海のように真っ暗で、 どのくらい席が埋まっているか全く解らない。
「さあ、それでは演奏してもらいましょう。タイガースの曲で<君だけに愛を>。どうぞ」
保科君がスティックを3回鳴らすのを合図に、田中君が唄い出した。
<♪oh、プリーズ。oh、プリーズ。僕のハートを。君にあげたい♪>
いつものように音程が外れていた。
サイドギターの菊川君が四分音符を規則正しく弾き、僕のリードギターがトレモロを絡めていく。
<♪君だけに>
田中君のボーカルに、僕と菊川君、丹野君がアンバランスなハモりをリフレーンしていく。
歌が中間に差し掛かった時、<♪君の世界へ>と高音に伸び上がり、保科君がドラムをタッカタカタカと叩く。
そこから、僕のリードのソロが入る。
格好良く、弾くはずだった。
僕はついさっき、トイレで思いついたことを実行した。
ピッキングガードの横に付いている音量調整のスイッチを回したのである。
リードギターの音は極端に小さくなった。
観客にはドラムとベースとサイドギターの音しか聞こえなかったに違いない。
構わず僕はギターのネックを見つめながら、アドリブを弾き続けた。
僕たちの悪夢のような演奏は身内が叩くお愛想の拍手で終わった。
僕はギターを抱えて、逃げるように舞台を降りる。
観客の前で演奏出来た充実感はなく、終わった安堵感に包まれていた。
「なんか、リードギターの音、全然聞こえへんかったな」
客席に行くと早速、見に来ていた友達が言った。
「そうやな、聞きにくかったから、リズムが合わせにくうてな」と保科君が言う。
「なんか、機械の調子が悪かったな」と菊川君が言うと、僕はその機械という文字に飛びつくように「そうやろ、なんかアンプの具合悪いのとちゃうか」と応えた。
僕はその時、物事を収めるのには機械のせいにするのが一番であるという教訓を身につけたのだ。
(例えば会社生活において、「資料はまだ、着かないのですが」という問いに、送るのをすっかり忘れていた僕が「ああ、ファックスで送ったのですが…。まだ届いていませんか、おかしいですね。全く機械は信用出来ませんね」なんて返答してしまうのは、この時の教訓からである)
しばらく観客席で演奏を聴いていた僕たちは、僕たちと同じ<君だけに愛を>を大人の人が演奏するのを聴いて、さらに失望させられた。
すべての面で天と地との開きがあったからだ。
まるで、ビートルズと横山ホットブラザーズの違いのように。(もちろん、僕たちが横山ホットブラザーズである)
メンバーでただひとり満足していたのはベースの評価が高かった丹野君だった。
恋人でバレー部のキャプテンをしている佐々木さんが見に来ていたのが嬉しかったらしく、終わった後も満足げで、2人揃って仲良く帰っていった。
他のメンバーは同級生の母親がやっているたこ焼き屋さんで、ソースをたっぷりと垂らしたたこ焼きを食べて帰った。
初舞台は不完全燃焼だった。
達成感はなく、何かもの足りなかった。
再び、僕たちは放課後幼稚園の教室に集まり、楽器を鳴らし始めた。
僕のリードギターの失態が余り話題にならなかったのは、音程の外れた田中君のボーカルが目立ったからだった。
ボーカルの良し悪しがすべてだった。
「田中君のボーカルは何とかならんかな」という気持ちがメンバーの中にくすぶっていた。
それが「田中君は何とかならんかな」にエスカレートしていく。
その頃、ザ・タイガースの「花の首飾り」がヒットし始めていた。
ボーカルは沢田研二ではなく、リードギターの加橋かつみが担当している。
加橋の透き通った高音が素晴らしく、リードギターをしながらのボーカルは格好良かった。
それとは対照的に、楽器の出来ない沢田研二がタンバリンを持って、テレビ画面の端に情けなく映っていた。
「花の首飾り」が話題になるにつけ、田中君の居ない所で、4人編成を求める気持ちが支配的になってきた。
その頃の僕はビートルズやモンキーズなどの外国ミュージシャンにかぶれていたし、それらは4人編成のグループだった。
さて、田中君をどうしてメンバーから外すかだ。
自分の音程が外れているのを気にしていない田中君はまだボーカルをやる気で、毎回の練習日に幼稚園に現れた。
誰が猫に鈴を付けるのかを話していた時、田中君と同じクラスの丹野君がポロリと言った。
「田中な、英語が全然あかんねん。通知簿はいつも2らしい」
目的と方法が決まると、人の気持ちを推し量ることに未熟な若者達は残酷になった。
次ぎの選曲は決める。
僕たちでも演奏出来そうな外国ミュージシャンの曲を探す。
僕は念願のモンキーズやビージーズの曲を出した。
持ち寄った曲の中から、ビートルズの「デイ・ドリッパー」やモンキーズの「アイム・ア・ビリーバー」などを選び、練習を始めた。
思惑通りに、手持ちぶさたの田中君は幼稚園から徐々に遠ざかるようになっていった。
身の程を知らずの僕はリードボーカルとギターを担当することになった。
中学3年生の僕は生徒会の副会長も務めながらグループの練習も欠かさず、勉強そっちのけで多忙な毎日を送った。
その年のレコード大賞はグループサウンズの旋風を反映してか、ブルーコメッツの「ブルー・シャトウ」が受賞した。
年が明けたころ、保科君がグループサウンズコンテストのチラシを持ってきた。
それはカワイ楽器が主催するアマチュアバンド対象のイベントで、六甲山の奥池で行われるものだった。
再び、僕たちは出場するための練習を始めた。
3曲ほどの選曲し、その中から一番演奏の簡単なビージーズの「ホリディ」でいくことになった。
ビージーズは「マサチューセッズ」が大ヒットで有名になったグループで、震えるような高音のボーカルが魅力だった。(数年後、「小さな恋のメロディ」や「サタディ・ナイト・フィーバー」の映画主題曲を担当して、大ヒットを飛ばした)
「ホリディ」は地味で単調な曲だった。
それだけにボーカルとコーラスがお粗末だと聴く人に不快感しか与えない。
伴奏が簡単だったため、練習もいい加減なものだった。
グループサウンズのブームに乗って、六甲山の奥池にはたくさんの若者が集まった。
僕たち坊主頭の4人は集まった善良な聴衆に対して、大いなる不快感を与えたに違いない。
当然予選落ちとなり、早々と会場を後にした。
そして、夜の空に黄金の雷を響かせた(つもりでいた)僕たちのグループはそのコンサートを最後に消滅した。
約1年余りの活動だった。
「また、機会があったら集まろうな」と淡い約束を交わして、それぞれの高校へ進学していった。
2年後には大阪で万国博覧会が開催されることが決まっていて、日本は高度経済成長の真っ直中にいた。
当分の間、僕はギターを手にすることもなかった。
それから7年後、吉田拓郎や井上陽水が若者達の心を捉えフォークソングブームを巻き起こすと、僕は再びギターを持って尼崎市浜田町5丁目のパン屋さん辺りに騒音をまき散らすのである。
保科君は幼稚園を継ぐことなく、繊維会社に勤めている。
田中君は家業であった米屋の跡取りとなっているという。
偶然に尼崎のお祭りで会った丹野君は佐々木さんを連れていた。
その後、めでたく結婚した。
菊川君は同窓会名簿の物故者の覧に名前を連ねていた。
癌で30数年の短い生涯を終えたという。
これで、再びグループを組むことは出来なくなってしまった。
まるで、ジョン・レノンを喪ったビートルズのように。
(南伸介を喪ったてんぷくトリオのように、とも人は言う)