私は淳一にとって、合格点のもらえる父親ではなかっただろう。
小学6年生の時、少年バレーの監督からこっぴどく殴られていた淳一を助けてやれなかった。 それがトラウマになって練習に行くのを嫌がっていた淳一を、車で体育館まで送り届けていただけだった。
何度か魚釣りに出かけたが、一匹も釣れた魚を見せることが出来なかった。
市民プールに出かけたが、私はプールサイドで本を読んでいて、淳一はひとり滑り台で遊んでいた。
阪神競馬場へ出かけた時、私がレース夢中になっている間、淳一は無料のミニ電車にひとりで繰り返し乗っていた。何度も繰り返し乗ったために、気分が悪くなってゲロを吐いていた。
私は葬式でこんな挨拶をした。
「今朝、この葬儀場から近くにある自宅まで歩きました。イズミヤの駐車場を歩いていた時、淳一とここでキャッチボールをしていて、ガードマンに怒られたのを思い出しました。至る所に思い出が落ちていて、これから頻繁に思い出と出くわすでしょう」
不合格の父親でも、淳一の想い出は至る所に落ちている。
このホームページを作るのに、戸惑った。
「こんなことを書いて、淳一はどう思うだろうか」と。
今も、戸惑いながら書いている。
でも、淳一が生きてきた15年間や病と闘った記録を書き残したいと思う。
ずっと、書き続けたいと思う。
みんなに時折、淳一のことを思い出してもらうためにも。
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