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あとがき
 

9月6日、早朝の出来事でした。
朝刊を取ってから、用を足そうと1階のトイレに入りました。
ふとトイレットペーパーを見ると、直径3cmほどの黒いゴミのようなものが付いていました。
何やろうと近づいて見ると、それは一瞬少し動いたのです。
「わぁー」と大声を出して、トイレから飛び出ました。
気を落ち着けて再びそろりと近づき、それを観察しました。
コウモリでした。
一旦電気を消してもう一度付けると、それは少し背伸びをするように動きました。
顔が下にあり、逆さになっているのが判りました。
しかし、不思議なことでした。
トイレは完全に密閉された空間なのです。
窓には網戸がしてあり、小さな虫さえ入ることが出来ません。
可能性があるとすれば、換気扇の回っている換気口です。
でも、それはコウモリが入れるような空間はありません。
一体、どこから入ってきたのでしょう。
寝ている妻を起こして、もう一度トイレに降りました。
妻が後ろから付いてきました。
トイレの電気を付け、そろりと中を覗きました。
トイレットペーパーのところにはいませんでした。
いたところに、黒い小さな糞のようなものが残っていました。
便器の裏にも、タンクの中にも、換気口の中にも、コウモリはいませんでした。
それから数日間、トイレに入るたびに隅々まで探しましたが、私の前にコウモリは姿を現しませんでした。
一体、何だったんでしょうか。
今でも、そのコウモリが動く姿を鮮明に思い出すことが出来ます。
ひょっとして、…と、思えてならないのです。

9月16日、一周忌を迎えました。
この1年は短くも感じられ、長くも感じられます。
淳一の部屋は過ごしていたそのままの状態ですし、 残している携帯電話には着信が入ったりしています。
食事は私たちと同じものを仏壇に供え、出かけるときは「行ってきます」、帰ってくると「ただいま」と声を掛けます。
まだ、家にいるような気がしてなりません。

1周忌の法事に、学校の先生が「夢に向けて」という文集を持ってきてくれました。
学校の友達や先生たちが淳一への思いを書き綴ってくれています。
私たちが知らない淳一の姿を垣間見ることが出来て、驚いたりうなずいたりしています。

淳一の病気が発覚したときから、治療の選択や医療過誤のためにと、日記を書き始めました。
治療のことを中心に書くつもりでしたが、見に降りかかってくる様々な出来事を前にして、その時の気持ちや考えをも書き綴っていました。
病院での出来事、会社での出来事なども加え、それはかなりの枚数になりました。
淳一が亡くなって2ヶ月後の11月から、それらを思い返しながら書き、ネットで更新し続けました。
書いている最中も、病院で知り合いになった子供が亡くなったことを何度か知らされました。
いろんな経験の中でずっと思い続けたことは、<病気と闘う子供と元気に日常生活を満喫する子供、一体誰が分け隔てするのだろう>でした。
因果応報、悪いことをした人はそれなりの苦しみを背負わなければなりません。
淳一や病院の子供たちが何をしたというのでしょう。
運命と言ってしまえば、そうなんでしょうが、その不条理が重たく悲しいのです。

出来るだけありのままの姿を綴ったつもりです。
お名前や特定出来るものはなるべく頭文字だけに止めたつもりですが、ご迷惑に感じられた方がおられましたらお許しください。
それと、私の拙い文章に付き合って毎回読んでいただき、それに励ましの言葉までたくさんいただき、ありがとうございました。

闘病中、淳一そして私たち家族を支えてくれたすべて人々に、感謝の気持ちでいっぱいです。

本当に、ありがとうございました。

闘病中の写真      (写真はクリックすると拡大します)
入院前、「牛角」で。 1月、「ちゃんと」のタイシャンを食べる。 1月、首に放射線の赤いマークが付いている。 2月、看護に疲れて眠る妻と淳一。
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