その1
 
 




平成15年12月、私は京都営業所へ転勤になった。
会社の親会社が変わり、新しく生まれ変わったのを機会に人事異動が行われたからだ。
大阪では30年近く勤めた。
京都は大学生活を送った場所であり仕事でも時折訪れていたところなので、勤めるにあたって違和感はない。
しかし、責任者として赴任することは気分的に重たかった。
管理職を長く務めているものの、今まで多くても3人程度の部下しかこと持ったことが無く、部下を管理するような仕事をしていなかった。
私には人の上に立つような才覚もない。
それが10名以上を引っ張っていく役割を担った。
それに営業所の業績は下降の一途だった。

その年の12月31日午後11時、私は比叡山にいた。
根本中堂の前には多くの参拝者が集まり、鬼追い式が行われていた。
鬼の格好をした僧侶たちが大声を挙げて焚き火の周りを練り歩く。
僧侶が鬼たちを説伏し、一年の除災招福を願うものだ。
暖かい大晦日だったが、やはり比叡山は寒い。
薄着だった私は山の冷気に震えていた。
毎年夏の時期、8月9日から3日間この比叡山でライトアップが行われる。
そのイベントを主催しているのがK電鉄であり、K電鉄の子会社である当社がその運営管理を担当していた。
京都営業所にとって、8月の大きな仕事だった。
その関係で、毎年大晦日には電鉄の担当者と同行し、挨拶に行くのが慣例となっていた。
「紅白歌合戦」が終わり、「行く年来る年」が放送されている時間だろう。
いつもなら、家でテレビを観て年越しそばを食べている時間だ。
根本中堂に参り、一通り関係のある担当者との挨拶を終えた。
参拝部を訪れると、そこの担当者から幸先矢を頂いた。
それは50B程の長さで、神社の破魔矢のようなものだ。
これを買うと、除夜の鐘を1回つかせてくれる。
多くの人が整理券を持ち、梵鐘の列に並んでいた。
私は並ぶのが面倒になり、同行していた電鉄の人が鐘を突くのを焚き火に当たりながら待っていた。
いつもは静寂に包まれているはずの境内にはたくさんの参拝者がたむろし、時折「ボーン」という重たい鐘の音がうっそうと茂る木々の間をさまよう。
頬に当たる風は冷たかった。
東塔での挨拶が終わり、J係長が懇意にしている住職のおられる横川へ立ち寄る。
横川は東塔と違い参拝者も少なく、静謐な空気に包まれている。
そこで年越しそばをごちそうになり、午前2時頃に下山した。
京都三条は深夜にも関わらず、たくさんの人が行き交っている。
昼間の喧噪とそう変わらない。
I課長とJ係長の「少し飲んで帰ろう」という誘いで、近くの居酒屋に入った。
我が社の担当のM君を交え、夏のライトアップの話で盛り上がる。
京都営業所に赴任して1ヶ月しか経っていない私は話の内容に付いていけず、ずっと聞き役だった。
ビールから焼酎に移ったころから、次第に疲れを感じ眠たくなってくる。
他の3人のテーブルには空になった2合徳利が並んだ。
午前3時を過ぎて、お開きになった。
疲れに眠気も手伝って酔いがかなり回り、店を出るとき隣りの椅子に置いていた幸先矢を危うく忘れそうになった。
三条大橋は新春を祝う若者や初詣帰りの人々でにぎわっている。
3人と別れると、ふらつく足取りで阪急電車の河原町駅まで歩いた。
終夜運転している電車は通勤ラッシュを思わせるほどの混みようだった。
てっきり座れると思っていたのだが、甘かった。
特急も急行もなく、各駅停車の普通電車にかろうじて乗り込んだ。
人混みの車内で、眠気と酔いはさらに身体を巡る。
電車が揺れるたびに、吊革にぶら下がっている身体は大きく動く。
十三駅に着いて降りようとした時、幸先矢が半分無くなっているのに気づいた。
人に押されている時、真っ二つに折れてしまっていたのだ。
床に絵馬の付いたもう半分が落ちていた。
私はそれを拾い、自宅に帰った。

それから9ヶ月後。
暑い夏が終わり、ようやく秋の気配が感じられ始めた9月、とんでもない災禍が降りかかってきた。