その11

私が京都営業所に転勤した頃、淳一はバスケットに没頭している時期で、中学生活を満喫した。
人生が輝き始める頃である。
他校との試合が毎週のようにあり、連戦連勝だった。
淳一もガードのレギュラーとして、チームの勝利に貢献していた。
夏に行われる総合体育大会で、全国大会へ行くことが目標になっていた。
それに向けて、厳しい練習の日々を送っていた。

その頃の会社生活のことをもう少し書きたい。
赴任した当初、営業所の営業成績は下降の一途をたどっていた。
新会社になる数年前から、営業所を閉鎖して大阪営業所と統合する計画もちらほらと出ていた。
京都営業所はK電鉄の交通広告の他に、京都地下鉄・バス、嵐山を走るK電鉄、鞍馬や八瀬を走るE電鉄、それに京都を中心とする放送局や新聞などのマス媒体を扱っている。
売り上げの中心になっていたのはK電鉄のグループ会社から受注する広告だった。
京都や大津にはホテル、汽船、レジャー施設、運輸会社など、K電鉄の子会社である会社がたくさんあり、京都営業所はそれらの広告を扱うことで売り上げが成り立っていた。
しかし景気が低迷していくと、子会社の経営も厳しい状態に陥っていった。
当然、広告や販売促進に掛ける費用を縮小せざるを得なくなる。
それに印刷物や看板など制作物の費用を少しでも安くしようと、値引きを要求したり、他社との競合に掛けたりする。
その影響で、京都営業所の売り上げは徐々に落ちていった。
私が京都営業所に異動となった頃、営業成績が転がり続けている時だった。
「なんとか、営業所を建て直してほしい」
異動を告げると同時に、T常務は私に言った。
しかし恐らく、本心から私に期待していた訳ではないだろう。
私には管理者としての実績があるわけでもないし、低迷する営業所を建て直すほどの資質があるとも思えない。
会社再建のゴタゴタの中で、優秀な人材が辞めていったため、営業所を取り仕切る人物は不足していた。
それでも、私以外に人材はいた。
前任の所長であるY君は学年では一つ下になるが同年生まれで、気心の知れた関係だった。
私が30年の間大阪で勤務をしていたのに対し、Y君は京都で採用され、営業所の媒体を手配する業務にずっと従事していた。
その間、T常務に非常に可愛がられ、T常務にとってもY君は最も心の許せる部下であったようだ。
京都人同士というのは排他的であるゆえに、親しくなると他を寄せ付けないほどに信頼し合うところがある。
「T常務はY君がそばにいないと機嫌が悪い」などと、所員たちのささやきが聞こえてくる。
最も所員の信頼が厚かったH氏が会社を辞めてから、所長になる人材がいなくなった。
そこで大阪にいたT常務やY・H部長が所長を兼務していたが、会社が新会社になる5ヶ月前に、Y君が部長に昇格するとともに京都営業所の所長になる。
さらに新会社になった時、取締役へと昇進する。
このスピード出世に従業員一同は驚いていたが、ある意味「そうか」と納得するところもあった。
K交通社から離れ事業会社として独立した時、T常務がほとんど会社運営上の実権を握ることになっていた。
人事においても、自分の意を通すことが出来るようになったようである。
気心の知れたY君をそばに置いておく為、所長になって5ヶ月しか経っていないY君を大阪へ呼び寄せ、その代わりに私を京都営業所へ異動とさせた。
Y君と違って、私は上司にとって、可愛くない、イヤなヤツだったと思う。
場の雰囲気をわきまえず、正論を振りかざし、議論のほころびに付け入るところがある。
営業を長くやっていたので、ネゴは得意なのだが、時折会議などで突発的な発言したりしてしまう。
黙っておられなくなるのだ。
月1回マネージャー以上が集まる会議で、こんなことがあった。
親会社のK電鉄から天下りしてきたYさんという人がいた。
この人は非常にバイタリティがあり、いろんなアイデアを考え出しそれを実行していく。
定年間際で親会社からやってきた方々は一様に何もしないことを信条にしているようだったが、Yさんは違った。
どんどんと自分の考えを推し進めていく。
協力する部下は非常な労力を要し迷惑することもあったのだが、抜群の実行力があった。
どこの会社でもそうだが、本業の売り上げが低迷してくると、新規事業を立ち上げて、なんとか売り上げを伸ばそうとする。
その新規事業の立ち上げを担っていたのがYさんであり、その時ひとつの提案を行った。
「諸国の名品」と銘打ったその企画は全国の名産品を集めて、それを京阪沿線で販売しようというものだった。
<旅行の添乗員が「これはお薦め」という商品を揃えました>というのが売り文句である。
発想は面白かった。
親会社のK交通社がするべき事業だったが、親会社には本業が危うくそんな余裕がない。
そこで、Yさんが中心となって、その企画を実行していく。
自分の人脈を活かして仕入先を確保し、時には地方へ出張し仕入先の当たりを付けていく。
パンフレットやポスターなどの販促物は社内のデザイナーが作成し、広告宣伝は我が社が買い取っている車内の中吊広告を使って出来る。
パンフレットはK交通社の営業所の店頭に並べられた。
よく売れたという印象はあった。
しかし、その内容は取引業者が付き合いで買ったことと、従業員が会社の号令に従い知人や親戚に無理矢理頼んで買って貰ったのが実体だった。
自社のスタッフや抱えている無料の広告媒体を使っていて経費が余り掛かっていないかに見えるのだが、印刷費用や通信費など必要経費はかなりあった。
どう見ても、儲かった事業とは思えなかった。
販売が終わっても、収支の報告が無かった。
しばらくして、Yさんの後釜にFさんがK電鉄から出向してきた。
再び、FさんがYさんに引き継いで、2回目の「諸国の名品」をすることになった。
マネージャー以上が出席する会議で、それが発表された。
席上で、「カラスミは美味しかったな」とか、「カニはなかなか身が多かった」などと、社長以下幹部連中の、和気藹々とした会話が続いた。
食べ物の話をする時、堅苦しい会議は和やかになる。
しかし、実体を知っているマネージャー連中は沈黙して聞いているしかない。
私は言ってしまった。
「少し聞きたいのですが、前回の収支はどうなっているのでしょうか」
和やかな雰囲気が突然凍り付いた。
気まずさをふり払うように、T常務が「収支につきましては」と口を開き、自分のファイルをめくった。
「売り上げがいくらで、経費がいくら。結果、16万の赤字になっています」
少し沈黙があった。
私が心の中はこうだった。
「アホか。商品を買ったのはほとんどが取引業者と社員で、商品に気に入って買った一般顧客は数えるほどやないか。それを知ってるのか。しかも、赤字なんやで。それをまた、繰り返すのかいな。今度は行けるという戦略でもあるのやったらええけど、また取引業者や社員に押しつけるのやろな。押しつけられる身になってみ」
お偉方と前で、そんなはっきりと主張するほど、私には根性がない。
「あのぉ、2回目はビジネスとしての勝算があってするんですか」
私が言うと、また、沈黙があった。
すると、社長が「まだ、すると決めた訳ではない」と言い出し、続いてFさんが「1回目はまだ手探りだったから。こういう事業は何度か繰り返して、事業として成り立っていくものだから」と応えた。
社長以下、その発言にうなずき、この話は終わった。
2回目の「諸国の名品」は再び取引業者と社員が買わされ、前回と同じほど売れたようだ。
どんな事業も部下に対してはうるさい程に収支報告を求めるのに、その収支はその後全く表に出てこなかった。
会議が終わって部屋を出るとき、T常務に呼び止められ、「君はいつも突然言う。話すことがあったら、事前に言っておけ」と毒づかれた。
今までに何度も、会議の席で、突然批判めいたことを「言ってしまう」ようなことがあった。
プロパーの社員として、会社の幹部まで上り詰めたT常務にとって、一回りも年下の若造が幹部の前にして正論をかざし、批判めいたことを発言するのに我慢出来なかったのに違いない。
Y君が突然取締役に昇格し、私を管理する立場になったのだが、それはそれでやりやすいのではと思った。
T常務が直接の上司となり、いちいち報告しなければならないのでは気分が滅入る。
それより、気心の知れたY君が上司だと、それなりに思い通りにやれるだろうと思っていた。
しかし、それは期待はずれだった。
Y君は社長や常務のいうことをそのまま私に指示をしてくる。
それに加えて、京都営業所のことを熟知しているだけに、事細かく仕事に口を挟んでくる。
大阪での生活に慣れないいらだちとスピード出世に対する気負いがあったのだろう。
今まで私に接していた態度とは違って、命令口調になっていた。
初めは私も反発しぶつかる場面があったが、半年を過ぎた頃から出来るだけ自分を抑えて、協調するように持っていった。
Y君も大きな責任を負わされ、社長や常務から好き放題のことを言われてストレスが溜まっているのだろうと同情する部分もあったし、私が青筋を立ててぶつかっても、仕事が滞るだけで所員たちは迷惑するだけだった。
出来るだけ、Y君いや、Y部長の指示を受け入れながらも、適当に受け流していた。
京都へ赴任した時、掛けられた売り上げのグラフと机の中から出てきた営業マンたちの血判書めいたものを見て、私は笑ってしまった。
棒グラフには予算を達成していない者の上に骸骨のマークが描かれ、達成している者には花まるが付けられていた。
血判書にはそれぞれの営業が、「私は予算を達成できませんでした。申し訳ありません。来期は一生懸命努力をし、何とか予算達成をいたします」、てなことを一様に書き連ねていた。
私は自信を持って人を叱れるような人間ではないし、先頭に立って部下を引っ張っていく上司でもない。
責任者としての資質など、全くない。
そんな私でもこれだけはしようと思っていたことがあった。
所員たちの失敗を責めないことと指示は具体的にすることだった。
グラフや血判書などの精神論は何の役にも立たない。
また、私がやりやすく感じたのは、所員みんなが私の異動を歓迎してくれたことだった。
当然Y部長も営業所を良くしたいという熱意はあったのだが、それが空回りしているようだった。
自分が良いと思うことを押しつけるところがあり、それが所員の反発を買っていた。
穏和なだけで頼りなげな私のほうが組みしやすいと思ったのだろう。
赴任早々、所員のひとりが仁和寺の駐車場で住職の買ったばかりの車に接触する事故から始まり、次々と様々な問題が降りかかってきた。
仕事上のミスや顧客からの苦情、落ちていく取引など、明るい話題がほとんど見つからないまま、業績は低迷しつづけた。
責任者というのはなんと精神的に疲れるものだと、うんざりしたものだ。
しかし、所員は明るかったし、営業所の雰囲気も良かった。
みんな人が良く、尖った人間はひとりもいなかった。
営業をする上での物足りなさはあったが、私の波長に合っていた。
2004年の下期が終わり、営業所の成績は予算に対して10%ショートしていた。
私が赴任してからも、時折本社から営業所を閉鎖して、大阪本社と統合する話がちらほらと聞こえてくる。
それに対して、私は営業所が上げる最低限の利益を示し、営業所の収支からすると、まだ黒字だと訴えていた。
異動したばかりの営業所が閉鎖になるとは何とも情けない話だ。
だが、このまま売り上げが下がり続けると、最低限の利益を下回るのは時間の問題だった。
2004年7月、人事を変えた。
淳一が総合体育大会での試合に敗れ、胸の痛みを訴えた頃である。
営業の責任者をしていたSさんを媒体手配の内勤に変え、それまで担当してもらっていたF君を大阪本社の営業に異動してもらった。
その代わり、大阪で媒体担当をしていたH君を営業に据えた。
営業は私が直接みることにした。
Sさんは私より2歳年上で、京都営業所の仕事に慣れていない私を助けてくれる良き番頭のような存在だった。
パソコンにも明るく京都営業所の仕事に精通していた。
営業一筋だったが、長い営業生活から少し気分を変えたい気持ちが伺えた。
私としては今までの知識を活かして、内側の仕事を締めてくれることに期待した。
H君の営業は全く未知数だった。
入社してからずっと大阪で媒体担当をしていて私とは余り接点がなく、どんな仕事ぶりなのか判らなかったが、若い血を入れることで他の営業マンが刺激されるのを期待した。
人事異動は思い通りに進んだが、ひとつ大きな痛手を被った。
デザイン担当のA君が大阪へ異動したことだった。
以前、デザイナーが3人いたが、私の異動と同時にひとり大阪に異動となり、デザイナーはA君ともうひとり契約社員の女性Wさんがいた。
デザイナーは多いほど良いのだが、私が異動した大阪の欠員を埋めるためひとり編集担当として大阪へ異動する必要があり、私もそれを了承した。
ふたりのデザイナーで何とか間に合うと思っていたし、何とかやっていけた。
A君はIT関連に詳しく、大阪本社からは新しく社内ランのシステムを導入するのにどうしても欲しいと言ってくる。
A君が抜けると、デザイナーは契約社員の女性ひとりになる。
抵抗したのだが、大阪本社から強引に異動を告げられ、A君本人も希望したことで、私は折れざるを得なかった。
実際やっていけるのだろうかと不安は募った。
そんな現場の気持ちを、幹部たちは全く意に介していなかった。
嘆いてばかりはいられなかった。
困るのは営業マンたちである。
とにかく、外部のデザイン事務所を使って、何とかやりくりをしていしかなかった。
8月に入って、台風が頻繁に上陸し、その合間に厳しい夏の光が街を覆った。
京都営業所の夏の大きな仕事である、比叡山ライトアップのイベントが無事終了し、ホッと一息付く間もなく、次々と問題が降りかかってくる。
営業成績も上向く兆候はなかった。
それでも、徐々に京都での生活に慣れ、責任者としてやる気が出てきた頃である。
息子の病気が判り、状況は一変した。
正直なところ、仕事などどうでもよいという気持ちになった。
それでも、責任者としての生活は続く。

2004年11月24日、淳一は高度救急救命センターから6階小児外科の集中治療室に移った。
気管挿入したままの状態で眠り続けている。
穏やかな眠りにも見え、苦しそうな眠りにも見える。
しかし、どうしても乗り切らなければならない難題を抱えていた。