その13

当時、阪大病院の小児科には横紋筋肉腫の子供が4人いた。
Kさんの息子もそのひとり。
淳より1年年下の15歳。
1年程前に、足の痛みを訴え、太股がパンパンに腫れだしたという。
検査の結果、横紋筋肉腫と告げられた。
京都府立病院で治療を受けていたが、阪大病院の評判を聞いて転院してきたのだ。
阪大病院には横紋筋肉腫の治療で実績を上げているH助教授がいた。
H助教授に診て欲しくて、阪大病院へやってきたのである。
何とか、子供を助けたい一心だったのだろう。
同じ病気の子供を持つ親として紹介され、小児科のデイルームで会った。
Kさんは私と妻を前に、今までの治療を説明する。
時折手に持ったノートを確認しながら、立て板に水のように話す。
ノートにはびっしりと今までの治療経過が書き留められている。
抗ガン剤治療の内容から、副作用で示す白血球の数値まで、几帳面に。
私はその熱心さに圧倒された。
子供の病気に真っ向から向き合っている親を見ると、ただうろたえてばかりだった自分が情けなくなる。
阪大病院に横紋筋肉腫の症例がたくさんあると知ったのは入院してしばらく経ってからだし、この病気に詳しいH助教授がいるのも後に知った。
Kさんは病名が判ると、セカンドオピニオン(他の医師にも診察してもらうこと)も受け、阪大にH助教授がいることを知り何とか紹介状を手に入れ転院してきたのである。
Kさん以外にも、H助教授を頼って遠くからやってくる親たちがいた。
翌年の4月、H助教授は阪大病院から都島区の病院へ異動していった。
それとともに、Kさんの息子もH助教授を追って都島区の病院へ転院していった。
しかし、淳一が亡くなった1ヶ月後に、死亡の知らせが届いた。

12月初め、私はひとりのガン患者を見舞った。
滝井にある関西医大病院に入院されていた。
K電車広報宣伝担当のJ係長は5年前、腸のポリープの手術をされた。
私が情報誌の編集を始めた頃で、連休を利用しポリープを切除されたと伝え聞いていた。
その後、元気になられ、情報誌の仕事にも参加していた。
いつも気取った雰囲気をにじませながら、もったいぶった話し方をする人で、私と仕事上で接する機会はそう多くはなかった。
余談だが、40歳後半のこの頃、私は髪の毛がかなり薄くなっているのを意識しだした。
大正製薬から発売されているリアップという発毛剤が爆発的に売れていた時期である。
リアップは毛細血管を拡張する経口血圧降下剤から開発されたミノキシジルが含まれている。
日本の場合、ミノキシジルの含有率が1%しか認可されていない。
だが、それが開発されたアメリカではミノキジシルが3%も含まれたロゲインをいう発毛剤が売られており、これもかなり話題になっていた。
アメリカに留学中の甥がいたので、ロゲインを送ってもらって毎日使うようになった。
そんな話を打ち合わせの時にすると、「分けてもらえないか」とすぐにJ係長から電話があった。
2本ほど分けてあげたのだが、今から思うと化学治療の影響で髪の毛が減少していたのではないだろうか。
さらに2本分けてあげたのだが、効果が認められなかったようで、それ以後声が掛からなかった。
効能書きによると、頭頂部のハゲのみ効果が認められているらしく、額の生え際における効果は確認されていないという。
つまり、カッパハゲにしか効かないのだ。
余談ついでだが、私の場合その効果が認められ、かなり回復した(ようである)。
J係長は広報宣伝で比叡山ライトアップを担当されている関係上、私が京都営業所に赴任してから仕事上での関わり合いが多くなった。
赴任した早々の大晦日、比叡山へご一緒した。
その際、帰りの電車の中で幸先矢を折ってしまったことは以前に書いた。
その頃からJ係長は時折体調をくずされ、会社を休みがちになっていた。
夕方打ち合わせで三条の事務所に寄られた時、酒席をご一緒することがあったが、大好きなお酒は控えめにされていた。
広報宣伝では社寺仏閣との折衝を多く経験されていて、比叡山においても親しい人が多かったようで、ライトアップの運営ではJ係長を頼りにしていた。。
比叡山ライトアップが行われる8月には体調がかなり悪くなっておられ、屋台会場に置かれた床机に横になって休まれている姿を何度も見た。
以前と比べ、顔色が悪くかなり痩せておられた。
しかし、食欲の方は旺盛で、精進料理の弁当をぺろっと平らげておられたのを思い出す。
秋が深まる頃、ほとんど会社を休まれていた。
冷たい雨が降っていた。
私はY部長と滝井駅の改札口で待ち合わせた。
Y部長は私よりJ係長とは親しい。
どちらも酒好きで、よく京都でご一緒していたという。
滝井に着くと、すでに改札前でY部長が待っていた。
Y部長の後ろに、女性が立っている。
女性は「いつもお世話になりまして」と笑みを浮かべて、軽く頭を下げた。
奥さんに会うのは何年ぶりだろうか。
ひと昔と言えるほど、以前だ。
奥さんは歳を重ねたとはいえ、以前とあまり変わっていないように感じる。
子供も手を放れ、有り余る時間の切れ端を使って、夫の見舞いに付いてきたらしい。
Y部長から時々奥さんの話を聞いていた。
1年前に子宮ガンの手術をした。
最初の乳ガンの手術から10年以上も経っており、その間4度の摘出手術を経験しているという。
見た目には健康そうだった。
奥さんを駅前の喫茶店に待たせて、Y部長と病院へ向かった。
6人部屋の病室は寝台列車のように狭い。
各ベッドのカーテンは下ろされている。
すべて南向きになっている阪大病院の4人部屋と比べて、そこはかなり陰気で暗く感じられた。
J係長は一番明るい窓際のベッドに横になっておられた。
かなり痩せていた。
会う前、少し緊張していた。
盲腸や骨折などで見舞うのとは訳が違う。
病状が進んでどんなに変わっているかを想像し、それにどんな態度で接するのが良いのかと考えてしまうのだ。
淳一を見舞う人たちもこんな気分を味わうのだろう。
「や、あれあれ」
笑みを浮かべたJ係長を見て、少し心がほどけた。
「すみませんなあ。わざわざ」
読みかけの新聞を横に置きながら、はにかんでいるJ係長は私が見慣れた表情に変わった。
駅前で買った果物を渡すと礼を言って、手慣れたしぐさでそれをベッドの横に置く。
病状のことを聞くのが憚られたが、「どうですか」の挨拶に軽く病気のことに触れる。
「5年間再発しないなら、大丈夫って医者は言っていたのになあ」
天気の話題をするように、あっさりと話す。
ガンという言葉は出なかったが、告知されているようだ。
それ以上病気の話をすることなく、話題はもっぱら比叡山ライトアップのことだった。
ライトアップの費用はK電鉄が負担していたが、比叡山延暦寺は場所を提供している立場から様々な要望をしてくる。
来年のライトアップの件で、延暦寺側は根本中堂から離れた位置にある阿弥陀堂にもライトアップしたいと言ってきていた。
広げた分、費用負担が掛かる。
「簡単に言うが、金が掛かるんやからな」
J係長は費用負担をせずに要求をしてくる延暦寺に対して、愚痴をこぼす。
師走の時期に、8月の暑い盛りに行われるライトアップの話をするのは間の抜けた感じだった。
しかし、そろそろ来年の方針を考え始める時期だった。
「看護婦さん、痛い、痛い」
斜め隣りにいる老人の声で、時折話が途切れた。
この人は来年のライトアップを見られるのだろうか。
話が途切れると、ふと頭をよぎり、視線を窓の外へ向けた。
J係長は帰ろうとする私たちを引き留めるように、話が続く。
ほとんどが今の仕事の話であり、昔の仕事の話だった。
無念さが滲んでいた。
なぜ、J係長なのだろう、なぜ淳一なのだろう。
早めに切り上げて帰るつもりが、1時間近く居た。
J係長は点滴をぶら下げ、弱々しい足取りでエレベーターホールまで送ってくれた。
「大晦日の比叡山、一緒に行きましょう」というと、「お、そうやな」と微笑んだ。
それが私が見た最後の姿だった。
翌年の3月10日、多くの弔問者に見送られた。

病院を出ると、相変わらず鉛色の空から雨が滴っている。
Y部長の奥さんは喫茶店を出て、改札口の前に立っていた。
「余り遅いから、先に帰ろうかと思っていたところやわ」
待ちくたびれて、少し怒っているようだった。
買い物をして帰ると言って二人は大阪行きホームへ行き、私は阪大病院へ向かうため反対のホームに上がった。
ホームに立つと、対面に太り気味のY部長の横で奥さんのベージュコートが小さく見えた。
こちらを見て、ぺこりと頭を下げた。
奥さんを見た最後の姿だった。
この1ヶ月後、ガンが胃に転移していることが判り入院された。
5回目の手術をすることなく、7月17日に亡くなった。

11月30日、気管に入った管が抜かれた。
2度目の化学治療が効いて、腫瘍が小さくなっていた。
その為、気管への圧迫が少なくなって、呼吸が確保された。
助かった。
成功した時、立ち会った医師全員が思わずバンザイをしたと、T医師が伝えた。