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その18

病院には自分の意志に関係なく、不運を背負い込んでいる人たちがいる。
同様に、会社にも不運を押しつけられる人がいた。
少し、この頃の会社のことを書くことにする。

Wさんは地味な女性だった。
度の強いめがねを掛けていて、 どちらかというと、暗いイメージが漂っていた。
化粧もほとんどしていなかった。
時折ルージュを引いていたが、唇のラインからはみ出していたことがあった。
化粧に慣れていないのだろう。
「化粧というより、らくがきですね」という社員の冗談に、申し訳ないが、思わず吹き出したことがあった。
確かに、グラフィックデザイナーという、どちらかといえば華やかな職業とは少し違った雰囲気がする。
1年間の契約社員で、4年間勤めていた。
2月末に契約が切れる。
継続して契約するかどうかは1ヶ月前に知らせなければならないので、解雇する場合1月末には告げなければならなかった。
以前に書いたことだが、私が赴任する前、京都営業所にはデザイナーが3人いた。
その内のひとりは私と交代に大阪本社へ異動したため、デザイナーはふたりになった。
半年後パソコンが詳しい人が大阪本社に必要というので、私の強い反対にも関わらずA君が大阪へ異動してしまった。
京都営業所にはWさんがただ一人のデザイナーとして残った。
Wさんは真面目を判で押したような社員で、仕事もスピーディだった。
私は今の営業所にとって、欠かせない存在と考えていた。
確かに、Wさんの上に企画の出来るディレクターが必要だった。
本社へ要求しても、明確な返答はない。
下降気味の営業所の成績では強く言えないところもあった。
手が足りない時は大阪本社にいるデザイナーを使えば良いという返事が返ってくる。
しかし、素早い対応が求められる仕事が多い中では現実的に、それは無理があった。
Wさんも責任を感じ、かなりやる気を見せていた。
Wさんをうまく使いながら、何とかやりくりするしかない。
人を補充してくれない会社に対して、なかば意地みたいなものがあった。
1月中旬、Wさんの雇用契約評価表が回ってきたので、必要な人材として継続雇用するように書き入れた。
すぐに本社が「辞めさせて、新しくデザイナーを採用する」という方針を伝えてきた。
職を求めている人が溢れている時勢、応募すればもっと優秀なデザイナーが採用出来るというのである。
本社に出向いて、「営業所としても必要な人材」であることを主張したが、解雇は社長を含めた決定事項だった。
現場の責任者が必要な人材というのに、解雇するとは理不尽な話である。
Wさんを解雇する話は私が赴任する前から持ち上がっていたようだ。
それはデザインの仕事に直接関わらない一部の人間が流す風説に、影響していたようだ。
Wさんの能力は正社員である他のデザイナーと遜色はない。
むしろ、真面目な仕事ぶりは他の社員以上に評価できた。
会社というところは真面目であろうが能力があろうが、引っ込み思案で自己主張が出来ない人間は必ず貧乏くじを引く。
どうしようも出来ない容姿で判断されることさえある。
1月20日、解雇を告げた。
怠慢や不正を犯して解雇する例は何度も見てきたが、戦力となっていて本人がやる気を見せているのに、能力が無いと言って解雇するケースは恐らく初めてのことだろう。
それなら、辞めさせなければならない社員は他にもいるだろうに。
解雇を告げられたWさんはパソコンの前で、涙を流していた。

2月3日、私は52歳になった。
昼頃、営業のK君が「夕方、打ち合わせしたいことがあります」という。
夕方、珍しく営業所に社員全員が揃っていた。
午後6時が過ぎて、K君が打ち合わせをするから会議室に来て下さいという。
会議室の机に、ケーキが置いてあった。
驚いている私の背中に、みんなが「誕生日、おめでとうございます」と声を掛ける。
私の誕生日を覚えていてくれて、祝ってくれたのだ。
まるで三流の青春ドラマの主人公になったような、照れくさい気持ちだったが、思わず涙が出た。
息子の病気について詳しいことは伝えていないが、私が落ち込んでいる様子を気づかってくれたようだ。
営業所の中で所員たちは、 感情をむき出しにして人に接することも無いし、声を荒げる様子は見られない。
どちらかといえば、温和しく穏和な性格の子がそろっていた。
弱肉強食の競争社会の中で営業成績を上げていくには物足りなさはあるのだろうが、管理者の私が物足りないのだから、丁度良いのだろう。
私は自分自身管理能力のある人間だとは思ったことは一度もない。
上に立って、バリバリと人を引っ張っていくタイプではもちろんない。
理想の上司とは部下の至らないところをバシバシと叱ってリーダーシップを発揮し、なおかつそこに愛情がにじみ出ている人物のことだと思っている。
私は叱らないというより、自分に自信が無いから叱れない。
粘りがないし、諦めも早い。
人は根本的に分かり合えることは出来ないと思っているから、徹底的に議論し合うこともない。
こんな私でも、京都営業所の責任者を言い渡された時の社長面接で、「悪い連隊はない。悪い連隊長はいる」なんてナポレオンの言葉を持ち出して、成績も管理者次第というようなことをさらっと言っているのだ。
自信も目途もないのに、よく言ったものである。
それでも赴任した当初はこうして売り上げにつなげようとか、こういうように指示しようと真剣に考えていた。
しかし、営業成績は低迷したままだった。
新しい仕事が取れないどころか、既存の仕事が剥がれていくばかりだった。
そんな時、淳一が病気になった。
もう、管理がどうのこうのと考える余裕などなかった。
どうでもなれという、半ば投げやりな気持ちになっていた。
しかし、会社の活動は日々動いているし、毎日京都まで阪急に乗って通勤しなければならない。
そして、誕生日にケーキまで用意し気づかってくれる所員たちがいた。
この頃、私は人を管理するということをこんな風に考えようとしていた。
ゴルフのキャディでいようと。
スイングがどうのこうのと指示することもない。
あっちの方向へ打ちなさいということもない。
ただ、あちらには林があってOBになりますよとか、池があるから気を付けてとか、注意するだけ。
ボールを拭いて上げたり、パターを持ってきてあげたり。
気分よくラウンド出来たら、それで良い。
この頃私が管理者として取れる態度はこれしかなかった。
会社の仕事なんてものは筋道を立てて論理で進めれば良いのであって、感情的になる必要なんて無い。
それに、みんなが気分良く働けたらそれで良いのだろう、ぐらいに思っていた。

どういう訳だろうか、営業所の売り上げが徐々に上がり始めたのはこの頃である。
大阪から転勤してきたH君が新しい広告看板の仕事を獲ってから、雰囲気が少し変わってきたように感じた。
もちろん、私が何をしたということはない。
むしろ、何もしていない。
2月から3月にかけて、予想外の仕事が入ってきたのだ。
時間的に非常に厳しい仕事も多かったが、みんな淡々と仕事を消化していた。
そして、まさかと実現するとは思わなかったのだが、平成17年下半期の営業所の予算が何年ぶりで達成されることになった。
私生活の苦悩とは裏腹に、営業所の業績は右肩上がりになっていく。

2月13日、バレンタインの前日、メイク・ア・ウィッシュのUさんとTさんがプレゼントを手にしてやってきた。
病室は個室から4人部屋に移っていた。
プレゼントはアメリカのバスケットリーグNBAに挑戦しているT選手のビデオレターである。
DVDで編集されているものを淳一はベッドのテーブルにパソコンを置いて観た。
「淳一君、初めまして」
T選手は優しく語りかける。
「今は体調をくずして、病院で元気になろうと頑張っているですね。必ず、元気になると信じて頑張ってください。僕は今、NBAをカットされているけれど、またNBAでプレー出来るように頑張るので、淳一君も頑張って下さい。そして、元気になって、僕の試合を見に来て下さい」
アメリカのホテルの一室で撮影されているようだ。
メイク・ア・ウィッシュのUさんの話によると、本人にこれをお願いするのにかなり手を尽くしたという。
本人への依頼が到達するまでに、いろいろな権利関係をくぐり抜けなければならないようだ。
結局大手広告会社のD社を通じて、連絡が取れた。
口外しないことの条件が付いているので実名は隠しているが、願いが届けば快諾してくれたに違いない。
ビデオレターの他に、淳一が満面の笑みを浮かべて喜んだもう一つプレゼントがあった。
それはいつもT選手が試合で使用している黒いリストバンドだった。
バスケットボールの雑誌に載っているT選手の写真を見ると、必ずそのリストバンドを付けている。
レターの続きに、T選手自身が2つのリストバンドを示し、その一つをプレゼントすることを語っている。
淳一はそのリストバンドを最期まで宝物のように大切にし、それは亡くなってから一緒に棺の中へ入れられた。
先日(平成18年4月下旬)、メイク・ア・ウィッシュから「ニュース・フラッシュ」という機関誌が送られてきた。
夢が叶った時の子供たちの写真が掲載されている。
ケイン・コスギに肩車をしてもらっている子、イルカを触っている子、東京ディズニーランドで遊ぶ子、上戸彩と遊んでいる子…。
その中に、T選手が所属していたNBAバスケットチームのユニフォームをかざしている淳一の写真があった。
あのシーンからもう1年以上が過ぎているが、甘酸っぱい思い出が、ほろ苦い感情とともにこみ上げてくる。

ライブドアがニッポン放送株を取得し、フジサンケイグループに事業提携申し入れ をしたのはこの頃だ。
ニッポン放送がフジテレビジョンを引き受け先として、新規予約権発行を発表たり、それに対抗してライブドアの堀江社長が 発行差止めの仮処分を東京地裁に申請したりで、金や株にまつわるニュースが世間を賑わせていた。

2月18日、同室だったT君が亡くなる。
脳腫瘍だった。
今年になって、小児科で7人の子供が亡くなった。