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その19
 

常に不安で、憂鬱な気持ちだ。
漬け物石がドシンと胸に置かれているような。
このまま治療を続けて、大丈夫なのだろうか。
淳一の身体はどうなっていくのだろうか。
不安と疑問に包まれる。
最新の医療を施し、担当医や看護師さんたちが一生懸命やっているのは判っている。
だが、どうしようもなく不安だ。
それを少しでも和らげたい。
エスビューローの講習会に出かけたのもこの頃だ。
エスビューローとは小児がんで子供を亡くした親が中心となって設立された非営利法人である。
パンフレットにその主旨が載っている。
「一人で闘うよりも、励ましあえる仲間とともに歩むほうが治療成績もよいと考えられています。患者同士のコミュニティや患者家族のコミュニティが出来るならば、病気の内容と治療方法、晩期障害や心的障害などお互いに必要な知識を蓄積して行けるでしょう」
淳一が世話になっている阪大のH医師(横紋筋肉腫に詳しい)やK医師(淳一の2度目の生検の説明をした小児外科医)もスタッフとして参加していた。
事務所は阪大病院のすぐ横のビルにある。
その日の講習会は大阪市内の本町で開催された。
会は小児がん治療の基本知識を解説するものだった。
演壇に立ったのはH医師、K医師、それにO医師(川谷拓三似のオンコロジスト)たちで、淳一の治療に関わっている顔見知りの医師たちだ。
講演の内容はカンファレンスで説明を受けたものばかりだった。
100人程入れる会場は満席。
メモを取り、真剣な眼差しで聞き入っている。
ほとんどが小児がんの子供を持つ親たちである。
医療について、もっと知りたいという気持ちはあったが、それより、同様の不幸を抱えている人の中に身を置いていたいという気持ちが強かった。
つい半年前までは、こんな世界と無縁だったのだが。
講演会が終了し、千里中央まで地下鉄に乗った。
休日を繁華街で過ごす家族連れや若者たちが地下鉄を乗り降りしていく。
江坂を過ぎると、急に車内は閑散としてくる。
何ごとも無かったかのように。
生まれたり死んだりするのは車内で人が乗降するのと同じではないか。
人が死ぬというのはただ車内から出ていっただけではないか。
車窓から、病院の方向を見る。
空にどんよりとした雲が掛かっていた。
淳一はあとどのくらい生きられるのだろうか。
この日の日記にそんなことを書いている。

放射線治療が終わり、T医師から次の化学治療の説明があった。
治療が効いて、かなり腫瘍が小さくなっているのだが、手術するにはまだ無理ということだった。
がんは転移しているのだから、原発病巣を取り除いても良くならないのではという疑問はある。
しかし、原発病巣を手術で取り除くことで、がんがさらに浸潤するのを防げる。
病院では患者の治療に関して、内科や外科のスタッフが意見を交換すると聞く。
外科は可能な限り手術に活路を見いだそうとする。
それに対して、内科は手術の危険性を慎重に考え、内科的な処置に重きを置くようだ。
外科医の中には抗がん剤の治療に否定的な人はいるだろうし、内科医には淳一が手術をするのは無理だと考える人がいるのだろう。
立場によって、どの治療を重点に考えるかが変わってくる。
医療スタッフが意見を出し合って、最善の方法を選択していくのだとT医師は私たちに言う。
本当に、この治療で良いのだろうか。
他に選択する方法があるのではないだろうか。
大病院という看板だけを信用していいのだろうか。
担当医の説明が何度も繰り返されるたびに、迷いと不安に襲われる。
霧に覆われた山道を迷走しているような。
次の治療にはイリノテカンという抗がん剤を入れる。
かなり副作用がある新薬らしい。
どんなに苦しい思いをするのだろうかと、暗い気持ちになる。
しかし、あれこれ思い悩んでも、最終的に任せるしかない。

淳一の食欲には波がある。
1月末に外泊したとき、「卵マヨネーズご飯」が食べたいと言った。
これは私が食欲が無いときによくする得意料理だ。
卵をふんわりと焼き、ご飯の上にのせ、その上にマヨネーズ、コショウ、しょう油をかけ、磯じまんを添える。
これをかき混ぜながら、食べる。
料理といえるものではないが、これがシンプルで美味い。
案外、卵の焼き具合が難しい。
余り卵をかき混ぜると卵に含まれるレシチンという成分が乳化剤の役目を果たし、嫌な甘味が増してくる。
ふんわりと半熟程度に焼くのがコツだ。
淳一はそれを2日連続で全部食べてくれた。
義母や妻が外泊に備えて、一生懸命エビフライや焼き肉などを用意していたのに、ほとんど食べられなかった。
それなのに、私の作った料理を平らげてくれたことが妙にうれしかった。
2月に入ってから、放射線治療の影響で喉が痛くて、食欲が減退していく。
咽頭のあたりがただれているようだ。
淳一が少しでも食べたいというものは、急いで買いに走る。
ハンバーガーが食べたいと言えばマクドナルドへ、中華を食べたいと言えば、広東料理ハマムラの弁当を買ってくるし、ゼリーが食べたいと言えば急いで1階のコンビニに走った。
しかし、においを嗅いだだけで、[オエー」を繰り返す時もあった。
2月末に外泊をしたとき、家族で「音羽寿司」へ出かけた。
その時は注文したものをしっかりと食べていた。
淳一の食欲に一喜一憂する日が続く。
痩せていく淳一の身体に少しでも、力を付けさせようとしていた。だが、食べた栄養を吸収するのは正常な細胞だけではない。
がん細胞もその栄養を取り込んで、活動を始める。
腫瘍マーカーの数値が上がってくる。
それをまた、抗がん剤で抑える。               淳一が食べているのを見ていると、味方だけではなく闘う敵にも塩を送っているような気持ちになる。 

4人部屋は狭い。
窓に面したベッドは明るいが、廊下側は薄暗く一層狭く感じられる。
個室から4人部屋に移動した1月末、病室には淳一の他に2人の子供がいた。
淳一は廊下側のベッドだった。
となりの窓際のベッドには土佐から来ている脳腫瘍の子供がいた。
地元で治療をしていたが阪大の評判を聞いて、わざわざ四国からやって来た。
母親が泊まり込み、家族は週末になると車でやってくる。
まだ小学校低学年で、よく愚図っていた。
子供の話し声が大きく、それに呼応して母親の声も大きい。
静かな個室から移っただけに、隣りが発する音はさらに大きく感じられた。
子供は人なつっこく、仕切のカーテンを開けては淳一がしているテレビゲームを観たり、ビデオを一緒に観たりしていた。
淳一も可愛がっていた。
もう一人も脳腫瘍の子H君で、中学2年。
サッカークラブに入っていて、身長は170を超えていた。
両親は物静かで、あまり音を立てなかった。
2月中旬、そこへもう一人脳腫瘍の子供が入り、4人部屋はいっぱいになった。
その子供の母親Sさんはフィリピン人で、片言の日本語を話していた。
子供の名前はH君と同じなので、妻と亜由美はちびH君と呼んでいた。
Sさんは大阪のミナミでダンサーをしていたというだけあって、均整が取れたスタイルだった。
南国特有の陽気さなのか、笑い声が大きく、話し声も英語混じりで病室に響いた。
担当医は淳一と同じT医師だった。
T医師と治療に関して激しくやり合う場面もあったようだが、興奮するとほとんど英語を話していた。
妻と亜由美は子供がひとりで泣いている時に面倒をみてあげたりして、Sさんと上手く付き合っていた。
Sさんは感情の起伏が激しく、猫なで声で子供をあやしているかと思うと、大きな声で叱りつけることもあった。
私は仕事帰りに病院へ立ち寄り、9時の消灯時間過ぎて居残ることがあったが、Sさんの良く通る声が消灯した病室の中で槍のように投げ込まれてくる。
毎日のように、子供が気に入る「ライオンキング」のビデオを観ては大きな声で笑う。
どの家族も子供の難病という共通した苦悩を持っている。
だから、隣人が出す話し声やテレビの音には自然と寛容になっているし、寛容になろうと努力している。
しかし、病気の子供はそうはいかない。
抗がん剤が入って体調が思わしくない時はとくにイライラする。
「うるさい。何とかならない」と淳一は妻に訴える。
たまりかねた妻が看護士さんを通じて注意してもらい、しばらく遠慮がちにしていたのだが、声の大きさはさほど 変わらなかった。
しかし、我が子の化学治療が始まり、子供のつらそうな姿を見ると、周りの音がどんなに気になるかが判ってくる。
案の定、自分の子供の抗がん剤投与が始まると、少し温和なしくなった。
土佐から来ていた子供が退院し、そのベッドに小学校1年生の子供が入ってきた。
舞鶴から転院で、脳腫瘍の再発だった。
この子供がまた、うるさかった。
夜中まで愚図り、妻は「うるさくて、寝られない」と漏らしていた。
淳一もかなり我慢していた。
しかし、イリノテカンという新薬の治療が始まってから、かなりしんどくなり、周りの音にも敏感になっていた。
そんなある夜、爆発した。
「うるさい!」と叫んでしまう。
消灯された部屋に淳一の怒鳴り声が響いた。
何とか、妻がその場を繕ったらしいが、相手も戸惑ったのだろう。
子供が幼いだけに愚図るのをどうしようも出来ない。
親同士は「お互い様だ」として抑える気持ちはあっても、病人は容赦のない倦怠感に襲われ、雑音に敏感になってくる。
T医師に訴えて、個室が空いたら移動させてくれることになった。
特別に配慮してくれたということより、もうすぐ大量化学投与が始まる準備があったからである。

3月11日、個室に移った。                  内庭向きに窓がある暗い部屋だったが、トイレが付いていて使えるスペースは広い。
何より、静かだった。
ここで大量化学投与が始まる3月24日まで、苦しい治療のない平穏な日々を送った。
大きなうねりがやってくる前の、穏やかな海のようだった。
そんな中、淳一は自分の病気に対して、モヤッとした疑問が沸いていたようだ。
「単なるデキモノというものではなく、がんなのではないか」と。
自分の気持ちをはっきりと表に出すタイプの子供ではない。
無口なだけに何を考えているのか判らないところがあるが、気持ちが揺らぎは感じ取ることができる。
ふたつの出来事があった。
3月20日、外泊の許可が出た。
準備が整って、T医師が外泊許可書にサインするのを待っていた。
淳一も持ち帰るものを鞄に詰め込み、帰る準備は万端だった。
その時、T医師が妻と私に説明があるというのでカンファレンスルームへ出向く。
来週大量化学投与が始まることや注意点の確認、それに手術の可能性など、40分近く説明は続いた。
その間、淳一は病室でイライラして待っていた。
いつものことではあるが、妻と私が説明を聞いて病室に戻ると、「何話してたん?」と訊く。
私たちは毎回、「病状とこれからの治療の説明があったから」と応え、「順調に快復しているようだ」と話す。
どんな厳しい話の時でも、同じ調子で淳一に言う。
話が長引くと、さらに不安が募り、何か隠しているのではないかと不信感を抱いているようだった。
その時もそうだった。
自宅へ帰る車内で淳一は「長い説明やったな。何話してたんや」と妻に訊く。
妻は明るい調子で、「これまで治療の説明をしてくれただけ。デキモノが小さくなっているとT先生が言ってた」と応えたが、淳一は珍しく声を荒げた。
「誤魔化さんでもええやん」
その声の大きさに、私たちはたじろいだ。
妻が「誤魔化してなんかないよ。本当に良くなっているって言ってたから」と取り繕った。
淳一はそれ以上追求することなく、会話はそれで終わった。
3月22日、中学校の取り計らいで、ひとりだけの卒業式をしてもらった。
校長室に、校長、教頭、担任、バスケットクラブの監督、コーチ、その他数人の先生が集まった。
淳一は車椅子に座り、卒業証書を受け取った。
自宅に戻った淳一が不信げに妻に言った。
「お母さん、何で女の先生ら、泣いてたんやろう」
集まった教師の中に担任でも副担任でもない先生が参列していた。
「僕のこと、あんまり知らへん先生やのに」
その先生たちがハンカチで涙を拭っていたことを不思議に思ったようだ。
自分の病気に対する不安が渦巻いていたのだろうが、はっきりとがんであることを確かめようとしない。
言葉にすることの怖さを薄々感じ取っていたのだろう。
自分の人生が突然終わってしまうことなど、大人になりきらない子供には想像もできないことだ。

化学治療の最期の段階である大量化学投与はその卒業式の翌日から始まった。
わずかな希望にすがりつく、地獄のような闘いが始まる。