その2
 
 




不幸や災難というものはエネルギーを溜めているようにひっそりと身を潜め、いきなり姿を現す。
それは突然降り出した雨のようだ。

平成15年9月22日昼過ぎ、携帯電話が鳴った。
妻からだった。
「もしもし」
声は沈んでいた。
「どうだった?」と私が訊いた。
「具合が悪いんよ」
「え?」
妻が次の言葉を発するまでに少し時間があった。
それは震える気持ちを立て直すための時間だったのだろう。
「胸に大きな腫瘍が出来ているらしいの」
「腫瘍?」
「CTを撮ったら、はっきりと写っているって」
「うん」
私は今耳にしている妻の言葉が現実のことなのか疑いながら、ぼんやり聞いていた。
ひょっとしたら、次に「冗談よ、ちょっと脅してみただけ」と笑ってくれるのではないかとも期待する。
「大学病院か専門の病院で、診てもらってほしいって」
軽く考えていた息子の胸の痛みがとんでもないことになっている。
その意味は理解出来たが、まるで夢のようだった。
心に重たい鉛の球がぶら下がった。
「淳一はどうしてるの?」
「待合室で待ってる」
伊丹市民病院の待合室を思い浮かべる。
「病気のことは聞かせてないよな」
「もちろん、説明の時は外にいたから」
淳一がどんな様子でいるのか気に掛かったが、詳しいことは帰って訊く旨を伝えて、電話を切った。
私の身に起こっている現実とは関係なく、事務所の中の雰囲気はいつもと変わらない。
事務とデザインの女の子が黙々と仕事をしていて、電話を掛ける営業担当の声が営業所内に響く。
「ガンなのかな」

25年前、私は妻から受けた同様の電話を思い出す。
結婚を3ヶ月後に控えた7月、妻は公衆電話から会社にいる私に掛けてきた。
「あのね、先生がどうしようも出来ないって。後、1年も…」
妻の声は涙声で詰まった。
その後の言葉が出ず、泣き声だけが聞こえてきた。
「どうした?」
「もう一度、掛け直すから」と言って、妻は一旦電話を切った。
妻の父親は肝臓の数値が悪く、近くの病院で検査をしていた。
昨日病院から電話があり、家族に説明をしたいことがあるので来て欲しいということだった。
それで妻と妻の母親が病院へ出向いていた。
気持ちを立て直した妻の電話はすぐに掛かってきた。
「肝臓ガンで、かなり悪いんだって。1年ぐらいしかもたないって」
涙声で言う。
義父の姿を思い浮かべるのだが、私は後1年しか生きていけないことが信じられない。
そんな兆候は全く感じられない。
その頃妻の家に頻繁に立ち寄って、食事を共にすることがあったが、義父は美味しそうに酒を飲み、食事の量も私と変わらないのだ。
普通のサラリーマンと同様、仕事場である枚方パークへ毎日通っていた。
外の仕事が多かったせいか、顔色は浅黒く、健康そのものに見えた。
その後、義父は大阪の福島にある大阪大学医学部付属病院に入院し、治療が始まった。
妻と私の結婚式は10月初旬に決まっていたが、医者から「少し早めた方がいいのでは」と言われ、8月30日夏の暑い日に式を挙げた。
式のための外泊が最後の外泊となった。
義父のガンは肝臓の広い範囲に散らばり、摘出する手術は不可能で、主に抗ガン剤で化学治療を行った。
肝臓の病巣にチュウブを挿入し、機械で定期的に抗ガン剤を注入していた。
私は仕事が終わると、毎日のように病院へ立ち寄った。
10月に入ると痛みは日増しに激しくなり、ベッドで身体をよじって苦しんでいた。
そして、病気を告げられて半年も経たない11月16日に亡くなった。

私は今でもあの時の妻の声をはっきりと思い出すことができる。
25年の月日を重ね、義父から息子へと標的を変えて、黒く重たい雲が覆い被さってくる。
見たくもない嫌な思い出の写真が、突然古いアルバムから現れた気分だった。