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その22
 

4月末、Tちゃんが亡くなった。
病名は脳腫瘍。
3歳だった。
妻と亜由美が時折病室を訪れ、Tちゃんを可愛がっていた。
呼吸が止まってお母さんが抱きしめると、奇跡的に呼吸を取り戻し、2週間、か細い命をこの世に止めていた。
亜由美が病室で親しかったお母さんたちに声を掛けて、弔電やお供えを集めていた。

S君はまだ1歳に満たない。
S君は生後まもなく、神経芽細胞腫を発病した。
手術と化学治療を経験し、快復している。
淳一はこのS君を異常なほど可愛がった。
お母さんが時折病室にS君を連れてきてくれると、淳一はなめるようにしてあやしていた。
病状が気に掛かると、「S君はどう?」と頻繁に訊く。
同じ境遇同士で、何か通じるものがあったのだろうか。
病気を経験することで、反抗期のとげとげしさは陰を潜め、本来のやさしい淳一に戻っていた。
痛みや哀しみの経験は他人に対する思いやりとして蓄積されていくようだ。

ゴールデンウィークは穏やかな天気が続いた。
私は浜大津アーカスや京都駅前のアバンティのイベントを訪問した以外、終日淳一のベッドの横で過ごした。
淳一はファミコンに夢中になり、飽きるとテレビをぼんやり観ていた。
食事も徐々に喉を通るようになり、子供の日には明石焼きを食べたいと言った。
買ってくると少しだけ手を付け、すぐ箸を置く。
薬の影響で、まだ味の感覚が正常ではないのだろう。
それでも、かなり元気になっていた。
テレビのバラエティ番組を観ては、声を出して笑うことも多くなった。
最後の治療を終えたという安堵感に満ち、精神的に安定した状態だった。
T医師から「そろそろ、個室から大部屋へ移動してもらうかも」と言われる。
個室のほうが快適なのだが、空くのを待っている患者が多くいるようだった。

5月12日木曜日、月曜まで5日間の外泊許可が出た。
淳一は1ヶ月半ぶりに自宅へ戻った。
翌日の夜、亜由美が勤める京橋の創作料理「ちゃんと」へ行く。
亜由美の仕事場はこの店の入り口にある2坪ほどの花屋だ。
創作料理の店先に花屋がある、変わった形態の店舗だ。
淳一が入院する前、江坂にある「ちゃんと」で食事をしたことがあった。
その時、淳一はタイシャンという料理を美味しいと言って食べていた。
鯛の刺身に野菜を合わせてドレッシングしている料理だった。
化学治療をしている時は抵抗力が落ちているので、生ものは避けた方が良いということだが、食べたいというので注文する。
少しだけ手を付けただけだったが、かつおのたたきを注文すると、驚いたことに二人前も平らげた。
元気になるために、無理して食べている風にも見えた。
食事の後半は疲れた様子を見せ、亜由美と妻が何度も「大丈夫?」と訊く。
2日後の土曜日、神戸へ出かける。
神戸祭りが行われていて、中華街は賑わっていた。
淳一は毛糸の帽子で頭を隠し、車椅子に乗り、屋台の店を巡った。
時折、通行人たちが車椅子の淳一に視線を向けた。
ニラ饅頭や餃子など、ゆっくりと味わうようにして食べていた。
4日間の外泊はあっという間に過ぎた。
月曜日に血液検査の為病院へ戻ったのだが、検査を終えると再び外泊の許可が出た。
大量化学治療でガン細胞が消滅したのだろうか。
退院の期待が高まっていた。
ツライ思いをしたご褒美に、神様が少し希望を与えてくれたようだ。
2日後の水曜日、病院へ向かうが、検査を終えるとまた外泊の許可が出て自宅へ戻った。
平年よりかなり遅い梅雨入りとなった。
しかし、天候が大きく崩れることが無かった。
6月下旬まで、淳一はほとんど自宅で過ごした。
MRIや血液検査に出かけるものの、検査を終えると自宅へ戻ってきた。
バスケット仲間のK君やM君が頻繁に訪ねてくれる。
2階の居間でテレビゲームをし、大きな声で笑っている。
その光景は元気な時と変わらない。
淳一がベッドに横たわっていることと、髪の毛が無い以外は。
そして、隔離された病院生活のストレスを払いのけるように、買い物に出かけり外で食事を楽しんだ。
舞子のマリンパークへ行きショッピングをし、武庫之荘の焼鳥屋や尼崎の函館市場で食事をした。
余談になるが、函館市場は私の実家の近くにあった。
両親はパン屋をしていた。
震災で家を建て直したのを機に、パン屋を閉め伊丹で同居するようになった。
今、パン屋のあったところはラーメン屋になっている。
小学校を卒業するとき、友達数人と大切なものをタイムカプセルに入れ、土の中に埋めたことがあった。
その場所は函館市場の駐車場になっていた。
私はお土産にもらった鬼の形をした魔除けをカプセルに入れた。

元気な時はめったに一緒に出歩かなかった家族が、時間を惜しむかのように行動を共にした。

6月に入る
、淳一は車椅子なしでも歩けるようになった。
6月9日、みんなで近くの「牛角」へ出かける。
平日なので、空いている。
淳一は焼き肉をよく食べた。
食欲はかなり、快復していた。
食後、私が歩いて帰るというと、淳一は「僕も歩くから」と私に付いてくる。
妻と亜由美と義母は心配そうに、車から見ていた。
家まで500メートル、歩いても10分足らずだ。
身体が少し右に傾き、足を引きずっている。
淳一は身体をくねらせるように、ゆっくりと歩いた。
私は歩調を合わせて、国道171号線の歩道を歩く。
高度救急救命センターや集中治療室で1ヶ月近く眠らされ、その後放射線治療や化学治療を繰り返し、最後に大量化学治療を経験した。
8ヶ月の闘病生活で、肉体的にも精神的にも、ガタガタになっている。
「おい、しんどない?」
「うん、大丈夫」
2度訊いて、淳一は2度答えた。
息子と肩を並べて歩いた。
「だいぶ元気になったな」
「かなり、きつかったけど」
「もうちょっと治療、掛かるかもしれんけど、良うなってるって先生、言っていたから」
安心させるつもりで言った言葉だが、少し浮ついていた。
私は病気のことを訊かれるのではと身構えていたのだ。
「高校へ行ったら、またバスケットしたらええ」
「バスケットはちょっと、しんどいなぁ」
ぽつりと言った。
淋しそうに聞こえた。

ウランを手放す決心をした。
ウェルシュ・コーギー種の飼い犬である。
化学治療を経験した淳一は細菌やウィルスに対する抵抗力が落ちているので、雑菌の多い動物を飼うことは感染の危険を伴う。
外泊が増え家で暮らすことが多くなったため、心配になった。
ウランは4年前我が家にやってきた。
1階に暮らしていた両親のために、姉とお金を出し合ってプレゼントした犬だった。
時間を持て余して暮らす両親が少しでも気晴らしになるだろうと考えたからだ。
ところが、母親は認知症の症状が出始め、犬の世話どころではなくなり、主に父がウランの面倒を看ることになった。
やがて、両親が岐阜の姉の家に移り住むことになったのだが、岐阜にも犬がいたので、ウランは我が家に残された。
犬の世話で大変なのは朝晩の散歩である。
喘息気味の妻は細かい毛の多いコーギーが苦手で、エサやりはするものの散歩は出来ないし、亜由美は仕事の勤務時間が不規則で犬の散歩どころではない。
結局、ウランの世話は私がすることになった。
朝は5時半から30分ほど散歩をする。
私は朝は強いほうなので、そう苦痛ではない。
ツライのは帰宅してからの散歩だ。
仕事で遅くなろうが酒を飲んで帰ろうが、それに雨が降ろうが、ウランは私を待っていた。
私が帰宅する音を聞きつけると、犬小屋のある庭から私の姿を追っている。
淳一が入院すると、病院へ立ち寄るため私の帰宅が遅くなる。
遅くなると、申し訳程度にイズミヤの駐車場周りを散歩した。
それを見かねた隣りのMさんが夜の散歩をしてくれることになった。
Mさんは無類の犬好きで、シェットランド・シープドッグを2匹飼っていた。
自分の犬を散歩した後に、ウランを散歩してくれる。
余りに申し訳ないので、「私がやりますから」と遠慮していると、「ウランが可愛いから、大丈夫、心配しなくても」と応えてくれる。
実際、ウランは愛嬌のある犬だった。
短足で、胴長、顔が大きく、それにしっぽが無い。
コーギー独特のスタイルがたまらない。
ウランには変わった癖があった。
くしゃみや咳をすると、必ず激しく吠え、飛びかかってくるのだ。
2階のベランダでくしゃみをしても、それを聞きつけると1階の庭から見上げながら激しく吠えた。
淳一が入院した頃、亜由美の友人にウランを預かって貰ったことがあった。
その友人の両親がウランを気に入り、もし手放すのだったら是非欲しいと言ってくれた。
世話をしていると、愛着が湧くものだ。
私としても、淳一の身体のことが考えると仕方がなかった。
6月末、ウランは車の荷台に乗って引っ越しをした。
一抹の寂しさが残った。

人は生まれた瞬間から死という終着駅に向かって進む。
ゆっくりと。
その速度があまりにもゆっくりなので、止まっているように感じる。
終着駅へ向かっていることさえ忘れてしまうほどだ。
しかし、確実に終着駅へ向かい、そこへたどり着く。

以前親会社だったK交通社の河原町営業所に、Y部長と出かけた。
交通社の社長から、「営業所が殺風景なので夏のシーズンに安く装飾する方法を考えて欲しい」から頼まれたらしい。
河原町営業所は河原町通り、四条と三条との中間あたりにある。
人通りの多い、旅行の営業所としては最適の場所だ。
営業所の前に、坂本龍馬と中岡慎太郎の遭難の地という碑がある。
幕末ころ、ここは近江屋という宿だったらしく、龍馬が幕府の見回組に暗殺された場所と言われている。
確かに、これが旅行の営業所かと思うような殺風景な営業所だった。
以前はもっとレジャー産業としての華やかさがあった。
バブルの崩壊から業績は下降を続け、社員が減り、活気とにぎわいが徐々に失われていったようだ。
開店前の営業所に入ると、Sさんが現れた。
少しびっこを引いていた。
「やあ、久しぶりやな」
Sさんは無表情で言った。
元々、愛想がある人ではない。
私が旅行のパンフレットを作る仕事をしていた時、Sさんは国内の主催旅行の企画担当で、一緒に仕事をしていたことがあった。
もう、20年程前のことだ。
「いつ、河原町営業所に来はりました?」
私が訊くと、「1週間ほど前や。ちょっと、入院してたから」と弱々しく応える。
私はSさんが入院していたのを知人から聞いていた。
教えてくれた人が「ちょっと、具合悪い病気」と暗示するように言うので、病気の重さが想像できた。
私が病気のことから話をそらすように当たりさわりのない会話をしていると、横からY部長が突然訊く。
「何の、病気でしたん?」
「ガンですわ」と躊躇なく応えた。
「足の裏に黒いほくろのようなものが出来てて、デキモノや思って薬をつけてたんやけど、全然治らないんですわ。病院へ行ったら、精密検査受けてくれって言われて。皮膚ガンって、言われました」
平気な顔で言う。
「メラノーマですか」
Y部長が興味深げに言う。
「はあ、よう知ってはりますな。初めはただのデキモノや思うて、針でつついたりしてましたから。手術して、取ってもらいましたけど」
冗談っぽく、笑みさえ浮かべていた。
「会社はどん底やし、ほんまについてない。やってられませんわ」
そういえば、一緒に仕事をしていたころ、よく「やってられませんわ」って言っていたのを思い出す。
メラノーマの怖さを知っているのだろうが、さらりとした口調がどこか違和感を感じさせた。
その後Sさんは再発し、淳一が亡くなったすぐ後にこの世を去った。

6月14日、淳一は腰の痛みを訴える。
それ以後、頻繁に痛みを口にする。
T医師は「寝ている生活が長く続くと、腰が痛くなることがありますから」という。
不安がよぎる。
大量化学投与でガン細胞は死んだのだろうか。
検査で病院へ行くと、すぐに外泊許可が出て家に戻ってきた。
2階の和室にクーラーを付けた。
淳一が外泊の時はこの部屋で寝ている。
その部屋で「メタルギアソリッド2」や「NBAバスケット」のテレビゲームをし、飽きたらテレビを観ていた。
私も帰宅すると、父の日に贈ってもらったテレビゲーム「僕の夏休み2」を一緒に楽しむ。
余談だが、以前私は「僕の夏休み」に熱中していたことがあった。
夏休み期間叔母さんの家に預けられた「ボクちゃん」が、田舎で虫取りや魚釣りを楽しむというゲームだ。
単調だがノスタルジーを感じさせるゲームで、「ボクちゃん」が叔母さんと別れる最後の場面では落涙してしまった。

長く外泊が続き、退院が近いのではないかと思い始めたのだが。
淡い期待だった。
6月24日、私たちはふたりの医師から残酷な説明を受ける。

7月を待っていたかのように、本格的な梅雨になった。
時折激しい雨が地面を叩いた。