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その23
 

落とし穴はたくさんある。
至る所に作られている。
会社の仕事というのはそこへ落ちないように避けながら進むのだが、いつも落ちてしまう。
注意力が散漫な人は一所懸命仕事をしているにも関わらず、そこへ落ちていく。

6月16日朝、Y君が私の席に近づいてくる。
「所長、えらいことです」と小さな声ですまなさそうに言う。
K電車の四条大宮駅に、H大学の広告看板を掲出していた。
駅正面の壁面に掲げたかなり目立つ看板で、広告料金は年間150万を超えていた。
5月1日から継続して契約することになっていた。
通常、広告看板の契約というのは契約が切れる約1ヶ月前に、相手方に継続して契約して貰えるかどうかの意志を書類で確認する。
高額な看板の場合、契約が中止になった時に次のスポンサーを捜す期間も含めて、2ヶ月以上前に意思確認をするようにしていた。
つまり、この看板広告の場合2月中に継続する意志確認をする必要があった。
担当のY君は2月に何度か、H大学へ足を運び交渉をしていた。
相手の返事は継続して契約したいのだが、予算削減の折りで上司の了解が得られないかもしれないという曖昧なものだったらしい。
2月末に連絡してほしいとの連絡を受け交渉は中断していた。
Y君はそれを6月中旬まで、放っておいた。
継続してもらったと思いこんだのだろうか、すっかり忘れてしまったという。
それに先方の担当者が3月末で異動していた。
Y君は真面目で一生懸命仕事をしているのだが、どこか注意力に欠けるところがあり、大事なことが記憶から抜け落ちることがあるようだ。
広告料金の振り込みが無いことを知り慌てて相手方に連絡し、中止の結論が出ていることを知らされた。
契約に入って1ヶ月半も過ぎていた。
すぐに私は同行して、「なんとか継続してもらいたい」ことを告げたが、新しい担当者は「学長の決定事項で、変更出来ない」と主張する。
「年間とは言わない。3ヶ月でも良いから、お願いできないか」と半ば懇願するが、「予算が無い」「すでに契約が終わっているものを復活できない」と繰り返すだけだった。
とりつく島もない。
もう一刻も早く、次のスポンサーを捜すしかない。
媒体者であるK電鉄への支払いは6月末にしなければならない。
それに今からすぐにスポンサーが決まったとしても、看板の製作期間を入れると、次の契約は8月からになってしまう。
5月からの3ヶ月間は空き状態になり、赤伝票を切ることになる。
損をするにしてもK電鉄への支払いまでには次のスポンサーを決めておきたかった。
日頃本社の上司から見下すように怒鳴られているY君は、この時とばかりに激しい叱責を受けるだろう。
自らの不注意から招いたことなので仕方がないことだ。
だから、ここはY君に奮起して次のスポンサーを決めてもらわないといけない。
掲出してくれそうな大学をピックアップしてY君にセールスするように指示し、私も他の営業を連れて飛び込みセールスを繰り返した。
しかし、「経済のゆるやかな回復基調」とはいうものの、年間150万円を超える広告に手を挙げてくれるスポンサーはそう易々と見つからない。
蒸し暑い梅雨の晴れ間の中、四条大宮界隈を連日セールスして歩いた。

不運はさらに続いた
6月24日T医師から絶望的な話を聞いた3日後、追い打ちを掛けるような事件が起きた。
月に1回のマネージャー会議に出席していた時のことだ。
社長あてに1本の電話が掛かってきた。
社長は取り次いだ会議室の電話にでる。
「ええっ」という声が静まり返った会議中の室内に響く。
「それは申し訳ありません。すぐに事情を調べて対応しますから」と言い、何度も「申し訳ありません」を繰り返した。
受話器を置くと、私に向かって大きな声で言った。
「新聞の決算報告が間違っているって。K電鉄の専務からの電話や。聞いてるか」
突然のことで、すぐに返す言葉が見つからない。
「文字が間違っているらしい。担当は誰や」
社長が声を荒げる。
「Y君ですが。すぐに、状況を調べます」
私はそう言って会議室を出た。
急いで京都営業所へ電話を掛ける。
Y君と同じ班のKチーフが出て、「1時間前、K電鉄の担当者から連絡がありました。なんか、負債の項目のところで、文字が間違っているということです。先方でも対策を検討してから、連絡するとのことでした」と説明する。
こちらの緊迫した気持ちとは違って、のんびりとした口調だった。
K電鉄の総務担当が朝刊を見て気づき上司の専務に報告し、こちらにも連絡をしてきたということだった。
その専務が激怒し、本社の社長に直接電話を掛けてきたのだ。
お詫びの広告とともに、訂正した決算報告を再度掲載することで動く。
マネージャー会議は中止になり、私と媒体担当のSさんが新聞社や営業所に何度も電話を掛けた。
翌日に再度掲載出来るように手配した。
間違った内容は決算数字ではなく、決定的な誤りでは無かった。
しかし、事は役員が注目する決算公告であり、しかもトップ同士が連絡を取り合っただけに、事態は大げさな形に発展する。
私は社長と親会社の法務課へ行き、商法上対応に間違いがないかを確認する。
そして、すぐに社長、Y部長とともにK電鉄へお詫びに向かった。
K電鉄本社は四条大宮にある。
本社へ向かう途中、私は屋外看板を見上げた。
中止になってまだ次のスポンサーが決まらない、あの看板だ。
このことはまだ、社長の耳には入っていない。
これもY君のミスであることが判ると、どんな叱責を受けるのだろうか。
早く次ぎのスポンサーを決めて、何とか丸く収めなければならない。
K電鉄の事務所に入ると、奥にある総務課に案内される。
何度も3人で頭を下げた。
怒りの電話を掛けてきた専務は平謝りする私たちに、「数字の間違いでないから良かったけど」と嫌みとも慰めとも取れるような言い方をした。
沸騰していた怒りは収まっているようだった。
翌日の新聞にお詫び広告と正しい決算公告を再度掲載することと、すべて当社の負担で行うことを告げると、納得したように頷く。
翌日再び、3人で掲載紙を持っていき、K電鉄の社長にお詫びをして事態は収束した。
100万近くの損をすることになった。
「君、仕事をどう考えているの?」
京都営業所の応接室でY君を前にした社長は声高に言う。
「よくミスするそうやないか。人間はミスするもんや。そやけど、同じミスを繰り返したらアカンで」
Y部長を通じて、Y君のことはダメ社員として伝わっているようだ。
Y部長はダメの烙印を押すと、とことんこき下ろす。
確かに不注意なところがあるが、仕事に対する態度は真面目で真剣だ。
他の営業に比べ細かいスポンサーが多く、売り上げを上げていくにはかなり動き回らないといけないが、愚痴を言うことなく黙々と仕事をしている。
星の巡りが悪いと言えば、そうだ。
今回の件では決してY君ひとりを責めることは出来なかった。
原稿の確認は何度も相手にしている。
もともと、原稿自体は昨年に掲載したデータを流用していたので、それに数字を訂正するだけで良かった。
ところが校正の過程で負債の項目が増え、それを訂正したデザインのM君が間違って打ち直してしまった。
打ち直したのは一部分だけだったのに、それを間違った。
M君の責任も重かったが、最後に確認しなかったY君が責められても仕方がなかった。
Y君は運の悪さと不注意から落とし穴に落ち、大けがをするタイプだった。
項垂れるY君に対して、社長の叱責は執拗だった。
いつも冷静な社長が自分の怒声に、さらに昂揚する。
横に座っている私やY部長を意識しているようでもあった。
「お前、もう辞めるか」と言い、「もう、辞め」と続いた。
「すみません。今後、私が責任を持って指導しますので」
うつむいて黙るY君に変わって、私が堪りかねて言うと、
「どう責任をとるの?」
矛先は私に向いた。
「職を辞するということですが…」
私が言うと、突然Y君が立ち上がり、「それは」といって私に向かって頭を下げる。
「所長もこう言ってるんやから、これからはしっかりせな、アカンで」
その言葉を機に、社長の怒りは収まった。
私は四条大宮の屋外看板のことが頭をよぎる。
この問題を報告したら、どうなるのだろう。
今度は本当に辞めさせられるかもしれない。
しかし、この時の私は仕事などどうでもいいという気持ちだった。
社長が怒ろうが、会社が損しようが、もうどうでも良かった。
「そんなこと、どうでもええやないの。たかだか、100万損しただけや。命まで取ろうというでもないし」と心の中で繰り返す。
それより、カンファレンスで医者が言った「今の医療の限界です」という言葉が頭から離れなかった。

仕事なんてどうでも良いと開き直ったとしても、会社に行く以上仕事は続けなければならない。
2日後、さらに嫌なことが続いた。
その頃、街には無料求人誌が出回っていた。
これまで求人誌は本屋さんで買わなければならなかったが、数年前から無料で手に入るようになっていた。
フリーターや短期のバイトを求める人が増え、そこへ無料求人誌が出現した。
発行元は有料にしなくても、人材を求める企業の広告費で発行の費用を賄うことが出来る。
要は出来るだけ多くの人に手にとって貰い求人の効果を上げ、買い手側の企業の出稿を増やして売り上げを上げるのだ。
それには求人誌を出来るだけ人の目に触れるところに置く必要があった。
注目されたのが、毎日人が乗り降りする駅である。
各電鉄会社の駅看板は景気の低迷から、かなり空き枠になっていた。
双方のニーズがぴったりと合って、駅の至る所に無料求人誌を置くラック看板が出現する。
我が社もたくさんのラック看板をK電鉄の駅に取りつけるようになり、それが売り上げアップに貢献していた。
しかし、ラック看板はどこでも取りつけるわけにはいかない。
当然求人誌が取れる手の届く場所になければならないし、通行人の安全上壁面から突き出す訳にはいかない。
提供する看板は限られていた。
そこへ様々な企業が参入してきたため、ラック看板はまさに取り合いになった。
京都営業所でもそんな企業から問い合わせが多かった。
直接担当者が営業所に現れて、どうしてもこの駅にほしいと要望する会社もあった。
何とか電鉄と掛け合ってラック看板が出来る場所を探す。
そして、掲出するとなると、今度は他の競合会社が「どうして、我が社に案内してくれなかったのか」と怒ってくる始末だった。
インターネットや携帯電話などのIT関連の広告が伸びる中、時代遅れの感がある看板広告はスポンサーから徐々にそっぽを向かれていた。
看板広告が売り上げの中心にあった我が社にとって、ラック看板の需要はありがたいことだった。
しかし、提供する場所はほとんど残ってなかった。
そんな折り、浜大津の駅にラック看板の出来る場所が一面見つかった。
求人情報誌の最大手であるR社と無料求人誌の老舗といわれるI社が当社の担当者を通じて、掲載したいという意志を伝えてくる。
R社は1年前大阪から転勤してきたH君が、そして、I社は私が大阪から転勤したのを一番喜んでくれ頼ってくれたS君が担当していた。
京都営業所で初めて営業を経験するH君は私の予想をはるかに超えて営業成績を上げ、それが他の営業マンに良い刺激になっていた。
私は意識的に、H君を支援するようになった。
それに加え、R社は大阪本社で上位の得意先であり、R社の担当者も大阪本社を通じて、真っ先にラック看板を提供してくれるようにプレッシャーを掛けてきた。
対してI社の担当者もかなり熱心な方で、H君に猛烈にプレッシャーを掛けていた。
一面の看板を両者が取り合う状態になった。
どちらかを選択しなければならないとなると、最近取引するようになったばかりのI社より、これまで我が社に多大な売り上げをもたらしたR社を選ぶことになる。
R社に提供する方向でH君と話を進めた。
S君を交えてちゃんとした説明をすれば良かったのだが、それが抜けていた。
何かを判断する時には必ず筋道を立てて担当者に説明し、納得してもらうように心がけていたのだが、その時それが欠けていた。
いろんな問題が重なり合って降りかかり、半ば夢遊病者のような状態だった。
その件でH君と打ち合わせをしていた朝、S君が私の方を向き顔を赤らめて言った。
「所長、私、売り上げなんかどうでもいいんです。浜大津の看板もどうでもいいんです。今までの所長と違って、ちゃんと話を聞いてくれてたやないですか。だから、信頼して付いていこうと思ってたんですよ。それが…。嫌ですよ。コソコソと、そっちだけで話を進められたら」
S君がまくし立てるのを聞いて、私は「しまった」と思った。
怒るのも無理はなかった。
私が京都に来てから、S君は売り上げを必死で伸ばしていた。
ぎりぎりのところで無理をして、かなり突っ張って仕事をしている様子だった。
ちゃんと説明をしてやれば良かった。
それにしても、…。
何故、この時私は涙を流してしまったのだろう。
所員がみんないる前で。
何故、押し黙ったまま、ハンカチで目を拭っていたのだろう。
どしんと立ちはだかる大きな石の前で、何も出来ない悔しさに震えていたとも言えるし、私を頼ってくれていたS君の気持ちに熱くなったとも言える。
判らない。
事実、私は事務所で泣いてしまった。
その晩、私は一睡も出来なかった。
眠ろうとすればするほど、眠れなかった。
泣いた自分への情けなさと恥ずかしさとで。
そして、泰然自若と自分に言い聞かせた。

眠れない夜が明けるころ、どこからともなく蝉の鳴き声が聞こえていた。