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その24
 

6月24日金曜日、カンファレンスでT医師と向き合っていた。
T医師はCT画像を示し、言葉を選びながら説明する。
再発の告知である。
転移している腫瘍の位置は骨盤と肺の裏側。
それに腎臓と腸の壁面が腫れているので、腫瘍が転移している可能性があるという。
大量化学投与をしても、ガンは死ななかった。
ガンは淳一の身体の中で、ムクムクと起きあがってきた。  
転移巣が身体のあちこちに広がると手術で取り除くことは不可能だし、体中に当てなければならない放射線治療も出来ない。
健康な人の幹細胞を移植してガン細胞を退治する同種幹細胞移植というのもあるというが、淳一のような固形ガンにおいてまだ効果は認められていない。
「化学治療を続けて、広がるのを防ぐ以外に方法がありません」
ガン細胞を消し去ることは出来ないことを、T医師はやんわりと説明をする。
説明の後、6月27日の月曜日まで外泊許可が出た。
病院を出て、宝塚の中山にある「ピットイン」に寄る。
亜由美が新しいプレステを淳一に買ってやった。
家に戻ってから、妻の落胆ぶりはひどかった。
淳一の前では元気そうに装っていたが、淳一の居ないところではがっくりと肩を落とし、目に涙を溜めていた。
病院へ戻った翌日の6月28日、T医師にO医師が加わり病状の説明を受けた。
内容は先日の繰り返しで、O医師は「現在の医療の限界で、お気の毒ですが、どうしようもない」と、申し訳なさそうに言う。
敗北宣言だった。
予想されていたこととはいえ、はっきりと言葉に出されると、現実が重くのしかかってくる。
身体の力が抜けて、気分が灰色になっていく。
「今後は、化学治療を続けて何とかガン細胞の増殖を防いで、ガンと共存していく方法を取りましょう」
淳一のガンに良く効いたハイカムチンを投与するという。
ハイカムチンはすでに何度も投与し、淳一のガンに耐性が出来ている状態だった。
効果があるとは思えなかった。
しかし、何かの可能性にすがるしかない。
宝くじが買わない者には当たらないように、奇跡は信じる者にしか起こらないような気がした。
「出来るだけ痛みを抑えるように、麻酔医を付けます」
T医師が付け加えた。
末期医療の始まりだった。
別れ際、私はO医師に言う。
「横紋筋肉腫で、治った人はいるのですか」
O医師はすぐさま「もちろん、いますよ。元気に社会復帰している人も」と答えていた。
そして、「淳一君の場合、腫瘍の出来た場所が悪すぎました」と付け加えた。

翌日の6月29日から再び化学治療が始まった。
今回は病院でハイカムチンを投与した後、自宅に帰ってきた。
5日間、通院する形で自宅と病院を往復した。
以前より少ないといっても、副作用は襲ってくる。
熱を出し、自宅の和室で激しく嘔吐を繰り返した。
私が帰宅する9時過ぎには、ぐったりとして眠っていた。
抗ガン剤の投与が終わった3日後、CRPが高くなっていた。
CRPは身体のどこかに炎症がある場合や組織が崩壊するような病変がある場合に増加する。
炎症に対するマーカーである。
再び、4人部屋での生活に戻った。
以前同室だった大ヒロ君、淳一と同じ横紋筋肉腫のU君がいた。
大ヒロ君は淳一よりふたつ年下の中学2年生。
中学生にしては大柄で、身長は170センチを優に超えている。
サッカークラブに所属していて、急に脳腫瘍を発病した。
18時間に及ぶ手術を経験し、今は化学治療をしていた。
この化学治療が終わると、退院するという。
U君は小学6年生。
2月に足から横紋筋肉腫を発病し、淳一と同様化学治療を繰り返していた。
3人はテレビゲームをしながら、よく遊んでいた。
子供は無邪気だ。
ゲームを楽しむ歓声が病室に響いていた。

私と病院へ向かう車の中で、妻が「もしものことがあったら」と呟く。
その後の言葉は聞き取れなかった。
訊き返すこともしなかった。

7月14日、注文していたカツラが届いた。
アートネーチャーが「リトルウィング・ワークス(略称:LWW)」と称する社会貢献活動を行っている。
円形脱毛症、交通事故などによるケガ、ヤケド、アザ、手術跡、放射線・投薬治療による脱毛、アトピー性皮膚炎による脱毛など、髪の悩みをもつ子供たちにカツラをプレゼントするというものだ。
性別は問わず、4歳から15歳までの子供を対象にしている。
亜由美が病室の誰かに聞いて、髪の毛が無くなっている淳一の為に申し込みをしていたのだ。
申し込みをしてからアートネーチャー茨木店の係員が病院までやって来て、淳一の病気のことや頭の形を調査していった。
どんな種類のカツラにするかの希望を聞いてくれるのだが、淳一はロックミュージシャン風の散切り頭を選んでいた。
2ヶ月前のことだ。
そのカツラが出来上がった。
通常で購入すると、70万円もするという。
早速付けると、面白がってカメラに向かってポーズを取っていた。
しかし、付けたのは最初だけで、以後使われる機会は訪れなかった。

7月18日、海の日。
梅雨が明け、本格的な夏を告げるカンカン照りの日が続く。
淳一は夕方になると、腰の痛みを訴えた。
検査で、ガンは肺の一部にも転移しているのが判った。
その影響か、時折咳き込むことがあった。
再び、ハイカムチンとランダを入れる治療が始まった。
と同時に、T医師から告知のことを持ち出された。
大量化学投与で治療は終わると言っていたのに再び化学治療が行われていることに、淳一は不信感を抱いているようだ。
「まだ少し、デキモノが残っているので、もうしばらく薬をいれる必要がある」ということで、納得させていた。
納得していたかどうかは判らないが、疑いながらも黙って従っている。
はっきりと病状を告げて、「大変な病気だから、まだまだ治療を続けなければならない。そうでないと、死ぬかもしれない」、なんて脅すようなを言ってどうなるのだろうか。
落ち込ませるだけだ。
絶対に告知はしない。
希望だけを与えたい。
大丈夫と言い続ける。
私と妻の意見はこの点で一致していた。

7月23日、メイク・ア・ウッシュのUさんから連絡はあった。
千葉県の柏市でJOMOのイベントがあり、アメリカにいるT選手が一時帰国しイベントに参加するという。
日時は一週間後の7月30日土曜日だった。
そして、「そのチケットが手元にあるので、体調が良ければ見学してみないか」という。
数日後、チケットとなる葉書が送られてきた。
しかし、とても千葉県まで行ける状態ではなかった。
化学治療が終わったばかりで、副作用は続いていた。
一週間後、体調が快復しているとも思えない。
ところが、妻と亜由美は連れていく気になっていた。
何とか元気付けたいと思っていたのだろうが、私は気が進まなかった。
化学治療で衰えている体力がさらに低下する。
正常な人でも疲れる夏の旅行である。
飛行機に乗り自動車に乗り、そしてクーラーの効かない体育館で何時間も過ごすことが淳一の身体にどんな影響を与えるか判らない。
担当のT医師が許可する訳がないと思っていた。
ところが、亜由美がT医師に告げると、全く不可能なことではないという反応だった。
闘病生活でふさぎ込みがちな気持ちを、楽しみを作ることで奮い立たせようと考えている。
病院内でも賛否はあったようだが、行く方向へ動いていった。
信じたくないが、淳一に残された時間が少ないことは事実だった。
その日が3ヶ月先なのか、半年先なのか、それとも一年先なのか。
否定しながらも、みんな恐る恐る、その日が来るのを考え始めていた。
亜由美は積極的に動いた。
本当は柏市民だけが参加できるイベントだったが、主催する柏市に連絡を取り事情を説明すると、許可が下りた。
車椅子で見学する場所を確保してくれるという返事だった。
早速、亜由美はホテルを手配し、航空会社へ予約を入れた。
予約の際、車椅子の病人がいることを告げる。
初め不安な様子だった淳一も、旅行へ行けることに気持ちが高ぶってくる。
化学治療で下がっていた白血球の数値は徐々に上がり始めていた。
それでも、前日は病室のベッドで3回激しく嘔吐した。

7月29日金曜日、台風7号が通り過ぎた後、真夏の太陽が照りつけていた。
有給休暇を取った私は妻を車に乗せ、病院へ向かった。
病室では昨夜から泊まっていた亜由美が淳一を着替えさせ、出かける準備を整えていた。
外出するための輸血を終えたばかりだった。
T医師が何度も病室に現れて、外出先での注意を伝える。
低菌状態の患者を旅行に出すことは病院にとってかなり無理しているようだった。
しかし、T医師はそんな素振りを見せず、明るい笑顔で1階の駐車場で見送ってくれた。
昼過ぎ、病院を出て大阪空港へ向かう。
車を空港近くの駐車場へ入れ、そこから送迎バスで空港へ。
午後2時発の全日空に乗る。
車椅子なので、アテンダントがひとり同行し一番乗りで搭乗する。
亜由美と淳一は3人掛けを二人で使わせて貰い、淳一は亜由美の膝枕で横になった。
機内ではパーサーやアテンダントが何度も様子を伺いに来る。
飛行機は少し遅れ、4時前に羽田に着いた。
空港ではOさん家族が出迎えてくれた。
Oさんの子供N君は伊丹ボーイズで一緒プレーをし、その後神奈川県に転居していた。
この日のために、お父さんはわざわざ仕事を休んで迎えに来てくれた。
空港でレンタカーを借りると、新浦安オリエンタルホテルまで引率してくれた。
淳一がかなり疲れている様子だったので、ホテルではゆっくりと休ませてやりたかった。
Oさん家族もそんな淳一の様子に気づかい、すぐに帰ろうとしていたのだが、妻が強く夕食に誘う。
淳一にとってみんなと食事をする状態では無かったのだが。
寝ころべる場所がある店を探し、ホテルの1階にある和食の店に入った。
しかし、食事を楽しむどころではなく、すぐに横になり嘔吐した。
そんな淳一の様子を見て、本当に連れてきて良かったのだろうかと後悔した。
何故か無性に腹が立って、Oさん家族が帰った後、私はふてくされたように眠ってしまった。

翌日、11時頃までホテルで過ごし、柏市のイベント会場へ向かった。
柏市の体育館に着くと、すでにたくさんの人が開場で待っていた。
特別に車椅子用の駐車スペースが用意され、柏市の職員の方が係員の通用口から案内してくれる。
イベントが始まるまで、入り口近くのロビーで待った。
クーラーは無く、蒸し暑かった。
しばらくすると、職員の方が亜由美と車椅子の淳一を体育館のコートへ引率していった。
私と妻は一般客の入り口から観客席に向かった。
やはり、体育館内は蒸し風呂のような暑さだった。
JOMOと柏市が主催するイベントにはバスケットの好きな小学生や中学生が応募していた。
参加者に対して実業団バスケットリーグのJOMOチームのメンバーがクリニックをするのだが、T選手は特別ゲストだった。
広い体育館のコートには、それぞれのユニフォームを着た子供たちが整列している。
そこへJOMOチームが入場し、その後賑やかな音楽に迎えられT選手が入ってきた。
車椅子の淳一と亜由美が体育館の隅に小さく見えた。
ドリブルの基本から始まり、チームに分かれての練習試合があり、休憩を挟んだイベントは約3時間続いた。
その間、T選手は何度も淳一の前を通り過ぎる。
元気に体育館を動き回る子供たちの歓声が響いた。
握手する訳でもなく、声をかけるでもなく、淳一は小学生や中学生に指導をするT選手を視線で追いかけていた。

淳一は中学生になると迷わず、バスケットクラブに入部した。
小学3年生からしていたバレーボールに未練はなかったようだ。
同じ年に入部した友達に、小学生のミニバスケットを経験していたものが何人かいた。
その中でもK君はずば抜けて上手く、1年生からレギュラーメンバーに入り活躍していた。
淳一は少年バレーの経験が活きていたようで、すぐにバスケットボールの扱いにも慣れ、1年生の後半にはベンチに入れて貰えるようになった。
3年生が引退し淳一の学年が中心になる新チームが出来ると、阪神間でも強豪チームとして注目されるようになる。
新人大会、他校との練習試合など、連戦連勝だった。
一番背の低い淳一はボールを回しゲームを組み立てる、ガードという役割だった。
NBAに挑戦しているT選手のポジションと同じだった。
とはいえ、チームはK君の存在が大きく、ゲームを組み立てるのも得点を稼ぐのも、ほとんどK君だった。
このチームの形が最後の試合で、欠点をさらけ出すことになる。
新チームが出来てから3年生の夏まで、ほとんどの試合に勝利した。
阪神間の大会に勝ち、兵庫県大会でも優勝する。
大阪や滋賀、それに岐阜にも遠征し、全国大会の常連チームとも練習試合をするが、勝つこともあった。
チームが強くなるとともに、淳一のボール回しもかなり上達していた。
幸運にも、60校以上のチームが参加する阪神大会では最優秀選手に選ばれる。
この頃、淳一は反抗期でほとんど家では口を利かなかったが、その日ばかりは自慢げに笑顔を返していた。
3年生最後の大会は7月に行われた。
伊丹の市内大会から始まり、阪神、兵庫県、近畿大会に勝つと全国大会に出場出来る。
全国大会まで行けるのではないかと期待が高まっていく。
新人戦の頃兵庫県大会で優勝しているのだから、当然近畿大会へ進めるのではと皆が期待する。
しかし、スポーツはそんな甘くは無かった。
伊丹の市内大会は優勝したものの、阪神大会の準決勝で敗退してしまう。
優勝候補であるだけに、中心になるK君が徹底的にマークされた。
ひとりの選手に頼りすぎた欠点が最後になって露呈した。
K君は調子を崩し、チームはいつもの勝ちパターンを見失った。
淳一が亡くなってから、私は最後の試合をビデオで観た。
負けが確定的になって、K君が涙を流しチームが諦めムードになっている中、淳一は最後の笛が吹かれるまで必死で声を掛けボールを追いかけていた。
最後の試合を惜しむかのようにも感じられる。

イベントが終わると、私たちは礼を言って開場を後にした。
淳一は暑い体育館で数時間を過ごしたのに疲れた様子も無く、車の中でよくしゃべった。
気持ちが高ぶっている様子だった。
私は千葉まで来ることを戸惑っていたし、来てからも半ば後悔していた。
しかし、久しぶりに淳一のはしゃぐ姿を見て、来て良かったと思った。
ホテルに戻っても、淳一は元気に話をしている。
あたかも、体育館でT選手からパスを受けたように。
夜、夕食を外で食べるのが面倒というので、部屋で食べる食事を買いにホテルの隣りにあるダイエーへ出かけた。
ホテルの至るところで、ディズニーランドを楽しんだ観光客がミッキーマウスやくまのプーさんのグッズを持ってたむろしている。
車椅子を押しながらホテルを出ると、もうすぐ花火大会が始まる様子でたくさんの人が見学場所を求めて行き交っている。
私たちは弁当を買って部屋に戻り、夕食を食べた。
淳一はほとんど食べられなかった。
疲れた様子で、腰が痛いといった。
ロキソニンを飲むと、痛みが修まり寝息を発てていた。
遠くで花火の音が聞こえてくる。
ビルに遮られて、花火は見えない。
私は缶ビールを飲みながら、音と共に染まる夜空を見ていた。

翌日、親戚の賢ちゃんの案内で横浜のアウトレットに行き、昼過ぎに羽田から大阪へ向かった。
途中でT医師より外泊許可メールが入り、空港から直接自宅へ帰った。
家族で行く最後の旅行は終わった。
これ以降、淳一は頻繁に腰の痛みを訴えるようになり、病状は急速に悪化していった。

淳一が亡くなって2ヶ月後、JOMOから柏市で行われたイベントの映像が映ったDVDが送られてきた。
イベントの一部の映像はJOMOのコマーシャルとして、テレビで流されていた。
そのコマーシャルフィルムを撮る際、車椅子で見学している淳一の姿が多く映っていた。
亜由美がお世話になったイベントの関係者に感謝の手紙を送るとともに淳一の死を知らせると、その時の映像を送ってくれたのだ。