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その25
 

夏空に蝉の鳴き声が響く。
公園で、虫取り網を持つ親子がいた。
ふたりは蝉の鳴く木を見上げている。
父親が蝉を捕ると、子供はそれを虫かごに入れはしゃいでいる。
子供たちは楽しげに、公園の広場を走り回る。
同じ年頃の子供たちが病院で、ぐったりとベッドに身を横たえている。
抗ガン剤を流し込む点滴の管が、身体へ伸びる。
付き添う親たちは心配そうに点滴の液体を見つめている。
公園の子供たちと病院の子供たち…。
誰が分けへだてするのだろう。

8月2日、病院の駐車場で小児科の子供たちが花火を楽しんだ。
私は帰宅して、その写真を見た。
淳一の横にはT医師が多く写っていた。
妻の話では、T医師はほとんど淳一のそばに付いていたという。
他の子供たちの親がうらやむほどだったらしい。
その3日後、T医師から次ぎの治療について説明を聞く。
次の抗ガン剤はハイカムチンにランダを加えるという。
ランダは淳一にとって、副作用がかなり強かった。
病院でもランダを加えるのを迷っているようだ。
私は妻と相談し、「止めて欲しい」とT医師に伝えた。
T医師はあっさり、「ランダを加えることは止めます」と言う。
積極的に治療するというより、副作用を抑えることが優先されるようになった。
私たちも、これ以上淳一が副作用に喘ぎ苦しむ姿を見たくはない。
その翌日、淳一は腰が痛いと言い、足が全く動かないと泣くように訴えた。
そして、オシッコも出にくくなっていた。
私はテレビを観て笑う淳一を見てホッとし、天井を眺め考え込んでいる淳一を見て、私の気持ちも落ち込んだ。

8月7日、私はライトアップの準備の為に比叡山延暦寺へ向かった。
比叡山ライトアップは京都営業所が運営を担当するイベントで、毎年8月9日から5日間比叡山延暦寺で開催される。
ドライブウェイやロープウェイ、ホテルや庭園など、比叡山には親会社であるK電鉄が支援するグループ企業があり、以前から比叡山延暦寺とK電鉄のつながりは深い。
その関係で、延暦寺とK電鉄が協力して毎年夏のこの時期にライトアップを行い、観光客を積極的に誘致することに努めている。
その運営を担当しているのが我が社だった。
私たち運営する側は準備と片づけを入れると、1週間ほどかかりっきりになる。
準備に2日間掛かり、1日目は延暦寺内の会館に泊まる。
ライトアップは当然夜のイベントなので、開催中は昼頃から比叡山へ上がりイベント終了後の片づけを終えて降りてくると12時近くになった。
伊丹の自宅まで帰ることも出来ず、私は百万遍にある叔母さんの家に泊めて貰うことにしていた。
淳一の病状を考えると、1週間も病院へ行けないことは亜由美や妻に申し訳ない気持ちだった。
病院にいて何をしてやれる訳ではないが、居るだけで支えになっているのが父親なのだろう。
しかし、京都営業所だけではスタッフが足りず、大阪本社の管理職全員に応援を頼んでいた手前、責任者である私が抜けるわけにはいかなかった。
比叡山では携帯電話(ボーダフォン)が通じないため、売店横の公衆電話で妻へ電話を入れる。
尿道にパイプを入れて、オシッコを採って貰ったという。
そして、その日からハイカムチンを入れる治療が始まった。
ライトアップの準備は順調に進み、9日からイベントが開催された。
暗闇の中、ライトに照らされたお堂が浮かび上がる。
私は根本中堂の入り口で参拝者の整理をしていた。
郵政法案が否決され小泉首相が衆議院を解散したのは昨日で、世間は騒然としている。
この空間にはそんな下界の騒々しさはない。
幻想的で神妙な雰囲気に包まれ、薄暗いお堂に天台声明が響いている。
時折、公衆電話から病院の妻へ連絡を入れた。
腰の痛みが続き、ロキソニンを飲んで寝ているという。
吐き気はひどいようだ。
連日、片づけを終えて午後11時過ぎに叔母さんの家へ戻る。
叔母さんはすでに寝ており、私は以前京大生に貸していた2階の部屋で眠った。
翌日、叔母さんは朝食を用意してくれ、一緒に食べる。
学生時代、この近所に1年間、その後叔母さんの家に1年間下宿した。
叔母さんは料理が上手で、食事は楽しみだった。
淳一の様子を話すと、叔母さんは涙ぐむ。
10年前叔父さんが亡くなり、四十九日や一周忌の席に淳一を連れてきたことがあった。
まだ幼稚園に入った頃で、茶目っ気ぶりを見せ親戚の人たちを笑わせていた。
淳一がいることで、法事の席が和やかになった。
もう随分前のことではあるが、みんなの前でおどける姿が今でも鮮明に蘇ってくる。

ライトアップ2日目の昼過ぎ、公衆電話から聞こえる妻の声はかなり怒っていた。
その日、担当した看護師が淳一の点滴を替える時、「この抗ガン剤は」と口走ってしまったという。
淳一は目を瞑り、ベッドでぐったりと横になっていたらしい。
妻はすぐに、ナースステーションで看護師に抗議した。
婦長とT医師を呼び出して、看護師を担当から外して貰うように言う。
婦長が厳重な注意をし看護師も陳謝していたらしいが、妻の怒りは収まらなかった。
告知にあれだけこだわっていたのだから、無理もない。
「聞いていたのか」
「判らないけど、あの子、いろんなことを気にしているから。目を瞑っていても聞いているかも…」
「そうか」
受話器を持つ私は憂鬱な気分になる。
「絶対許せない、あの看護師。日頃から不注意な人だったから」
強い調子で言う。
「それで、担当を外れたの」
「婦長にかなりきつく文句を言ったからね、そうなると思う」
妻が電話を掛けるデイルームの風景を思い浮かべた。
「あんまり、もめ事にせんほうがええのと違うか」
波風を立てることで、淳一に対する看護師たちの態度が変わるのが心配になる。
しかし別のところで、何事も穏便に済ませようとする自分の態度が嫌になってくる。
「絶対に許せない」と、最後まで妻の怒りは収まらなかった。
翌日からその看護師は担当から外された。

ライトアップ3日目、業者との間でちょっとしたトラブルがあった。
その日は来年の印刷物に使用するため、写真撮影することになっていた。
イベント終了後、根本中堂内の階段に献灯ロウソクを並べ、ライトアップされたお堂を撮影する。
参拝者が居ないお堂は静かで、スタッフの声だけが響いていた。
真っ暗な中に照らし出されるロウソクの炎の揺らぎはとても幻想的だ。
カメラマンがポイントを決めて撮影するまでに、1時間以上掛かった。
その間並べられたロウソクは人間の寿命のように、早い時間に灯されたものから所々で消えていく。
それをライトアップのスタッフたちが急いで新しいロウソクに取り替えた。
その作業が何度も繰り返されていた。
私は業者のスタッフがたくさんいるので、私と担当のM君だけ残り手伝いに来ていたふたりの社員を帰した。
業者のスタッフ、それに私とM君は宿泊するところまで帰る段取りが出来ていたが、我が社のふたりの社員は車で山を下りてから電車で自宅まで帰らないといけない。
最終電車の時間が迫っていた。
ところが、社員たちを帰したことに、業者の女社長がM君に噛みついた。
M君は情けない顔で、私のところへ来て報告する。
自ら現場を取り仕切る女社長は仕事の分担に神経を使っている。
撮影の仕事はあくまでも当社の仕事であり、業者のスタッフは好意で手伝っているというのだ。
それなのに、「先にそちらの社員を帰してしまうのは筋が違う」という。
業者は時間が伸びると延長経費が掛かるアルバイトスタッフを使っていた。
「所長、これって困るんですよね。私とこはスタッフ全員残しているのですから」
女社長は私に嫌みを言う。
言われるまでもなく、撮影の仕事はこちらがすべて取り仕切らなければならなかった。
業者は下請けとはいえ、立場的に当社より強かった。
延暦寺や電鉄との打ち合わせも女社長が取り仕切り、主導権を握っている。
30歳台の若さで、やり手の女社長というアドバンテージを遺憾なく発揮する。
延暦寺側の担当者も電鉄側の担当者も当社を飛び越えて、些細なことでも女社長に相談する。
確かにライトアップのイベントには知識があり、社員を手足のように動かし、それでいて女特有のきめ細やかさも見せる。
その反面、細かいことにこだわり、ヒステリックな面を覗かせることがあった。
そうであっても、当社としても仕事をする上では頼り切っていた。
情けない話だが、運営管理者とはいえ当社としても付いていくしかないという状況だった。
その後、女社長との間に後味の悪さが残った。
いつもは饒舌なM君は山を下りて百万遍近くで私を降ろすまで、一言も口を利かなかった。
私が所員を帰したことに無言で抗議をしているようだった。
その夜、しばらく寝付きが悪かった。
開かれた窓から時折冷たい風が忍び込んでくる。
部屋の隅に本棚があり、アルバムが立てかけられていた。
明かりを付け、寝ころんでアルバムを開いた。
叔母さんが旅行した時の写真が並んでいる。
そこには私の母と一緒に写っているのもあった。
母と叔母さんが北海道へ旅行へ行ったのは10年程前のことである。
今では寝たきりで全く反応が無い母親が楽しそうに笑っている。
突然、淳一の写っている写真が出てきた。
叔父さんの法事の時のものだ。
階段でおどけている。
まだ幼稚園に通っている頃の写真だ。
あれから10年近く経っている。
アルバムを閉じると、病院へ行こうと思った。

2日後の朝、7時前に叔母さんの家を出て病院へ向かう。
昼頃から山に登るため、余り時間がない。
9時前に病院に着いた。
恐る恐る病室へ入る。
妻がベットの側に座り、淳一は寝ている。
見慣れた光景だった。
「お父さん、来たよ」と妻が声を掛けると、わずかに目を開けたがすぐに眠ってしまう。
痛み止めの座薬を入れてもらったところだという。
2時間程ベッドの側にいたが、淳一は眠ったままだった。
「また、来るから」と声を掛けても、目を開けなかった。

ライトアップが終わり、元の生活に戻ったのは8月15日。
世間はお盆休みの真っ最中だ。
事務所は休んでいるものが多く、気の抜けたように静かだった。
病院では抗ガン剤の副作用が始まっている。
8月7日から投与された抗ガン剤が血液数値を下げていた。
白血球が下がり、腫瘍マーカーが下がっている。
淳一の身体は徐々に弱っていく。
足は全く動かなくなり、自分の力では寝返りも出来なかった。
足が動かないのが心配になり、「先生、足動くようになるのですか」とT医師に訊いたそうだ。
T医師は「当たり前やないの」と、平然とウソを付いてくれる。
脊髄がガンに冒され、脳からの指示が足へ伝わらない。
もう、足は動かないようだ。

8月19日金曜日、お礼方々百万遍の叔母さんを訪ねた。
クーラーの効いた部屋で、買ってきたキャンデーを二人で食べた。
淳一の病状から岐阜にいる母の話になる。
「お前のお母ちゃん、いつ頃からあんなことになってしまったんや」
母親が認知症の症状が現れだしたのは、尼崎のパン屋を閉店し伊丹で同居するようになってからである。
「急にパン屋の仕事辞めたから、気持ちの張りが無くなったのやろな」
半世紀以上、パン屋で働いていたのだ。
サラリーマンが会社を定年になって急に老け込むのと同様、母も一機に年老いていった。
洗濯や食事など、主婦としてやるべきことはやっていたのだが、もともと専業主婦には似合わないタイプの人だった。
有り余る時間を持て余した。
その内、脳に萎縮が見られるようになる。
こんなことがあった。
私が母親に熱いお茶を入れてくれるよう頼んだ時、母親は水を入れた急須を直接ガスコンロに置いて沸かし始めた。
注意すると苦笑いしていた。
自分自信でも自分の行動に驚いていたのだろう。
叔母さんはすぐ下の妹である母が認知症になり、寝たきりになっているのをかなり気に掛けていた。
「お母ちゃんな、僕の前で一度ハサミを持って喉を突くしぐさをしたことがあってね」
それは徐々に動作が緩慢になり、アルツハイマーの症状が進行していく過程の出来事だった。
「僕に<生きててもしょうがない>って、言うんやもんな」
「そんなこと、あったんか。商売やめてしもうたことがいかんかったんやな」
叔母さんは涙ぐむ。
「お母ちゃん、根っからの商売人やったから、じっとしているの嫌やったんや」
「あんな風に、寝たきりになってしまうと本人もツライやろな」と叔母さんは沈んだ声で言った。
そして、「ぽっくり寺」なるものが注目されていて、多くの参拝者が訪れている話題を口にしていた。
最後に「ぽっくりと死にたいもんやな」と叔母さんは呟いた。

しかし、不思議なものである。
3週間も経たない内に、叔母さんのその願いが叶えられるのである。
猫をあやしながら玄関先まで見送ってくれた叔母さんの姿は、私が見た最後の姿になった。