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その26
 

淳一は頻繁に腰の痛みを訴える。
そのたびに、痛み止めの点滴を入れてもらった。
痛みが引いていくと、安心したように眠る。
T医師によると、痛みは精神的なものも影響しているらしい。
痛みが来るだろうと先回りして思い、痛み止めを要求している面もあるというのだ。
余り頻繁に痛みを訴えるので、痛み止めを入れるといって栄養剤を点滴したことがあった。
確かに、淳一は大人しくなった。
だが、そんな一時的なごまかしは続かない。
ガンは確実に、全身の神経を刺激し始めてくる。
ガンの恐怖は痛みへの恐怖でもある。
終末医療の研究が進んでいる現在では、痛みを抑える技術が発達している。
病院によっては緩和医療科とかペインクリニックといった、疼痛を抑える専門医を配置している。
阪大病院にも麻酔科の中に疼痛チームというのがあり、淳一も緩和治療の世話になっていた。
全身に及ぶ痛みに対して、最終的には麻薬のモルヒネが使われる。
モルヒネは確実に痛みを和らげるが、意識が混濁するため、ほとんど眠った状態になってしまう。
そのため、緩和医療では、いかに意識を保ちながら日常の生活を維持させ、痛みを和らげていくかが課題になってくる。
淳一の場合、痛み止めのロキソニンを服用したり点滴で麻薬系の鎮痛剤を入れたりして、大量化学投与の時に一回使ったことはあるものの、モルヒネまでは使用しなかった。
一体、ガン性疼痛というのはどんな痛みなのだろうか。

キリキリと締め付けるような痛みなのか、鈍痛のような重たい痛みなのだろうか。
痛みは本人にしか判らないのだ。
そばにいる私たちは、痛みに顔を歪める淳一に気を揉むばかりだった。

オシッコの出が悪くなると、不機嫌になる。
膀胱洗浄してもらいオシッコがたくさん出ると、ゆったりとした表情に戻る。
腫瘍が腸へ転移している影響か、便の出も悪くなる。
これも浣腸してもらいたくさん出ると、ホッとした表情を見せる。
テレビを観て笑う姿を見ると、私もホッとする。
それが繰り返される。
食事は一切口から採ることが出来ず、点滴で栄養を採ることになる。
私が病院にいる間、淳一はほとんど眠っていた。
私はベッドの横で、PSPのゴルフゲームをして時間をつぶす。
情けないが、私という父親は息子に対して何もしてやれない。
「腰が痛い」といっても、患部に手を入れてさすってやるわけでもない。
寝ている息子の手を握ってやることも出来ない。
私は積極的に子供とスキンシップをとる父親では無かった。
妻に言わせれば、赤ん坊の頃子供が泣いていると、「おい、泣いてるぞ」と言って抱き上げてもくれなかったという。
その言葉を全面的に認める訳にはいかないが、多少はそういうところもあったかもしれない。
でも、我が子が可愛くないわけがない。
父親という動物はスキンシップに対して、独特の照れがあるのだ。
父親は母親に比べて、子供と過ごす時間が圧倒的に少ない。
常に子供に対して愛情を表現している母親はそれに慣れているが、父親はそうではない。
たまに与えられた子供との時間に、ベタベタな愛情表現を急に出来ないのだ。
それに、私は愛情表現という点ではが特に下手な父親だと自分自身思う。
それでも、幼い頃、淳一と共に時間を過ごし、遊んだ。
平均点以上の父親だと思っている。
裏の駐車場でキャッチボールをしたし、バッティングセンターには何度となく連れていった。
夏には海にもプールにも連れていった。
バスケットがしたいと言えば、バスケットゴールが置いてある場所を必死で探した。
一匹も釣れなかったが、何度も鳴尾浜まで釣り竿を抱えて出かけた。
ザリガニが捕りたいと言えば、ザリガニが居そうな場所を探しては網を持って出かけた。
思い起こせば、至る所に淳一との想い出が転がっている。

G君は大阪大学の医学生だった。
小児科、小児外科のボランティアをしていて、阪大病院に来ていた。
自主的に病室を訪れ、子供たちと話をする。
穏やかで優しい口調だった。
8月25日、仕事を終え病院に着くと、いつものように淳一は眠っている。
夕方、浣腸してもらい、数日出なかったが便がたくさん出てホッとしている。
しばらくして、G君が病室に入ってきた。
「淳一君は眠っていますか」と小声で訊く。
「せっかく、来てくれたのにね」と、亜由美と妻が応える。
棒状の風船で作った金魚を手に持っていた。
「これ、作ったのです」
幼稚園児ならいざ知らず、それはどこから見ても中学生の男の子が貰って喜ぶようなものではない。
しかし、屈託のなく差し出すG君が温かかった。
同情や哀れみではない。
少しでも気持ちをほぐそうとするひたむきさが微笑ましい。
病気の子供やその家族たちにはそんな気持ちに支えられる。
G君は頻繁に小児病棟を訪れ、子供たちと時間を過ごしていた。
淳一も話しやすかったようで、私や妻と接するよりG君といる時のほうが口数が多かった。

8月28日、淳一は突然デイルームまで行くと言い出した。
妻と亜由美が看護師さんに手伝って貰い、やっとの思いで車椅子に乗せ、デイルームまでたどり着く。
しかし、すぐに疲れた表情を見せ、病室に戻った。
その日から再びハイカムチンの投与が始まった。
8月31日にはランダに変わる新しい抗ガン剤が入れられた。
ランダよりも副作用が少ないという。
確かに吐き気を少なかったようだ。
ガンは淳一の至る所に痛みを加え始める。
9月1日、肩が痛いと訴えたかと思うと、突然腰に異様な痛みがあると騒いだ。
痛み止めの点滴を入れてもらうと痛みが収まり、安心したように眠っている。
そんな状態の中、外泊することになった。
今までなら外泊が決まると満面の笑みを浮かべていたが、今回は違った。
淳一は不安な表情を浮かべた。
ここ数日、ベッドから降りることは無かった。
寝返りを打つことさえ、大変な作業だった。
亜由美が付き添っていると、ベッドの上にまたがって淳一の身体を持ち上げて回転させていた。
淳一はこの作業を妻や看護師よりも、亜由美にしてもらうほうが安心な様子だった。
外泊となると、車に乗せて家まで運ばなければならない。
家に着いたら着いたで、車から降ろして2階の和室まで上げないといけない。
淳一はもう、自力で身体を動かすことが全くと言って良いほど出来ない。
身体に触れるたびに「痛い」というので、腫れ物に触るように神経を使う。
それでも、T医師が外泊に積極的だったのは、淳一を元気付けるためだった。
大量化学治療を終えても、まだ化学治療は続いている。
腰の痛みは激しくなり、咳が頻繁に出る。
便や尿の出が悪くなり、足は全く動かない。
寝返りさえ打てない。
中学生3年生になった子が、この状態をどう感じるだろうか。
「お父さんとお母さんは元気になるというが、本当に良くなるのだろうか」
「デキモノだというけれど、悪性のガンではないのだろうか」
「元気になって、学校に行けるようになるのだろうか」
淳一は病院の天井を見つめて、不安を抱いていたに違いない。
しかし、一言も病気のことを口にしないし、訊くことも無かった。
真実を知ることが怖かったのだろうか。
黙ったままぼんやりと空間を見つめている顔には、諦めの表情が浮かんでいるようにさえ見えた。

9月3日土曜日、快晴だった。
朝亜由美と病院へ行くと、泊まりの妻がすでに外泊の準備が整えていた。
看護師さん数人と、K医師がナースステーションで待機していた。
鎮痛剤を入れる点滴の道具や、病院では口から酸素を吹き流していたのだが、家でも出来るように酸素ボンベ2本も用意されていた。
淳一は終始不安そうな表情を浮かべている。
寝ているだけでも痛みが襲ってくるのだ。
果たして、家までたどり着くことが出来るのだろうか。
車椅子で駐車場まで運ぶつもりだったが、無理だった。
身体を動かすたびに、「痛い、痛い」と悲鳴を上げる。
看護師さんがストレッチャーを用意してくれる。
みんなで抱えてストレッチャーに乗せ、駐車場まで運んだ。
駐車場まで運んだものの、車に乗せるのは大変だった。
いかにも体力が無さそうなK医師が必死になって、淳一の身体を支え、ゆっくりと車内へ運ぶ。
身体がどこかに触れるたびに、淳一は顔を歪めた。
やっとの思いで車に乗せ、家へ向かった。
車の後部座席では亜由美の膝枕で横になっていた。
家に着いてからがまた、大変だった。
痛がるのを無理矢理3人で車椅子に乗せ、そのまま1階のリビングへ運ぶ。
我が家は2世帯住宅で1階は私の両親が住んでいたが、両親は岐阜の姉のところで世話になっているため、空き部屋になっている。
2階へ運ぶのは不可能なので、1階リビングにベッドを敷いていた。
やっとの思いで、淳一はベッドに横たわった。
ホッとするのもつかの間、今度は「身体の向きが悪い」「腰が痛い」と愚図る。
病院でいつものするように亜由美が淳一の身体を持ち上げて、寝る向きを何度も変えてやった。
鎮痛剤を点滴で与えると、痛みが収まって静かになる。
その夜、淳一の周りに3つ蒲団を並べ、家族4人で眠った。
しかし、淳一は襲ってくる痛みのため、ほとんど眠らなかった。
「腰が痛い」と訴え、咳をする。
家よりも病院のほうが安心するようで、何度も「病院へ帰りたい」と言う。
いつ襲ってくるか判らない痛みに対して、家族より医師や看護師が近くにいる病院の方が落ち着くのだろう。
痛みへの不安と恐怖を前にして、我が家さえ安らげる場所で無くなっていた。
それにしても、どうして、こんなに苦しまなければならないのか。
一体、淳一が何をしたというのだろうか。
得体の知れないものに対して、無性に腹が立ってくる。
世の中のすべてがどうなっても良い。
そんな気分に襲われる。
今この瞬間に、北朝鮮がテポドンでもノドンでも我が家に打ち込み、みんな一緒に消えてしまったらどんなに楽だろうか。
私は暗闇に淳一の咳を聞きながら、眠れない一夜を過ごした。

翌日の昼頃、Yさんが訪れてきた。
Yさんは小児科に入院している時に担当だった看護師で、亜由美や妻が親しくしていた。
3月末で阪大病院を辞め、今は広島で医療関係の仕事をしているという。
淳一は朝から何度も「病院へ帰りたい」というので、夜まで家に居る予定を繰り上げて昼過ぎに病院へ戻ることになった。
大型で非常に強い勢力の台風14 号が九州に近づいていて、その影響で時折激しい雨が降っていた。
車に乗せるのをYさんに手伝って貰い、横殴りの雨が降る中、病院へ向かった。
これが最後の外泊だった。
次に家に戻って来た時、淳一の身体は冷たくなっていた。
最後に過ごした1階のリビングは、2週間後、遺体を洗い清める場所として使われた。