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その27
 

訃報は突然、届いた。
9月8日16時ごろ、営業所で仕事をしていると、携帯電話が鳴った。
千恵子叔母さんからだった。
「幸雄くんか、あのな、京都の叔母ちゃんがな…」
少し間があって、「亡くなったんや」
「ええっ」
営業所にいる所員が振り返るほど、私は大きな声を出していた。
「なんで。2週間前、家に行って話してたんやで」
昨日の夜、気分が悪くなったと訴えたため、いとこの栄子ちゃんが病院へ連れていった。
病院に着いた時、意識ははっきりしていたという。
しかし、その日の深夜、意識不明となった。
検査の結果、くも膜下出血と判った。
出血の範囲が広く手術は不可能な状態で、明け方には脳死状態となった。
そして、その日の昼頃に息を引き取った。
あっけない死だった。
私はすぐに叔母さんの家へ向かった。
京阪電車に乗り出町柳から歩くと、営業所から30分程度で着く。
多摩市に住んでいるいとこの博子ちゃんがもうすでに来ていて、部屋の片付けをしていた。
まだ、叔母さんは病院から帰っていなかった。
「幸君、来てくれたんか」
博ちゃんの目は涙で潤んでいた。
「あまりに突然で、びっくりした」というと、私の目にも涙が溢れてくる。
「もうすぐ、病院から帰ってくるわ」
博子ちゃんは遺体の安置場所を考えながら、ソファを動かしたり散らかったものを片付けたりしていた。
私も手伝いながら、叔母さんが戻ってくるのを待った。
叔母さんが親しくしていた近所の人たちが訪れる。
私が下宿していたとき、よく話をしたおばさんたちだ。
久しぶりの再会だった。
もう90近い歳だが、私のことをちゃんと覚えていた。
「幸雄君やな、叔母ちゃん、なんで先に逝ってしまったんやろな」
私の手を握り、涙を流す。
「なんで、先に逝ってしまったんや」と何度も繰り返した。
そして、「あんたとこの息子さんも、大変なんやってな」
叔母さんから聞いていたのだろう、淳一のことをいう。
葬儀屋の車が到着した。
二人の男が叔母さんの遺体を蒲団ごと降ろし、家に運び入れる。
ウナギの寝床と言われる京都特有の家に造られた細長い廊下を通り、葬儀屋の男たちは叔母さんを寝室にしていた居間へと運んだ。
廊下から居間へ入れる時、叔母さんの硬直した身体は回転することが出来なくて、男たちは立ち往生していた。
背丈は小さいが叔母さんはがっしりとした体躯で、60kgは優に超えていたようだ。
「少し手伝ってください」と言われ、私は叔母さんの頭部を支えた。
硬直した身体はずっしりと重たかった。
居間に入れる時、顔に掛けた布がぽろんと外れた。
叔母さんの顔はすでに死人のそれになっていた。
「ええっと、北はこちらですね」
葬儀屋の男は私を息子と勘違いしたようで、私に向かって言う。
横から栄子ちゃんが「ハイ」と応じた。
昨日まで寝ていたベッドに横たえた。
もうひとり近所のおばさんが訪れて、「なんで、こんな急に」と何度も呟く。
葬儀屋たちが手際よく準備を始める。
「ええっと、家紋はありますか」
再び、私に向かって聞く。
「いや、私はここの家のものじゃないんで」と言って、台所にいる栄子ちゃんに振った。
「家紋ですか」
困った表情で、仏壇の引き出しを探した。
叔父さんが亡くなって10年が経ち、その間仏事は叔母さんがひとりで管理していた。
「何がどこにあるのか、さっぱり判らなくて」と、栄子ちゃんと博子ちゃんのふたり姉妹は慌てて押入やタンスの引き出しを探す。
しばらく探すと、押入の中から仏事に関するものが出てきた。
急な時のために、それらはきっちりとまとめられていたようだ。
「それから、遺影にするお写真はどうしましょうか」
葬儀屋の男が言うと、博子ちゃんが2階からアルバムを持ってきた。
ライトアップで泊まった時に見たあのアルバムだった。
みんなで叔母さんの過去をたどりながら、遺影に出来そうな写真を探した。
あじさいの前で微笑む写真が遺影となった。
その際、私は淳一が叔母さんと写っている2枚の写真を貰って帰った。
翌々日の9月10日がお通夜、9月11日日曜日が葬式に決まった。

叔母さんが亡くなった日、淳一は個室に移った。
東向きの明るい部屋だった。
容赦なく朝日が射し込んでくる。
遠くに茨木の町並みが広がっていた。
窓から見下ろすと、モノレールの駅がすぐそこに見えた。

9月10日土曜日の午前中、私と妻はカンファレンスルームでT医師と話をする。
ガンの進行が急激に早くなっているという。
肝臓の数値が悪く、肺に水が溜まりはじめていた。
頻繁に咳が出て、ゼェゼェと苦しそうな息づかいになる。
T医師はひとつの選択肢を示す。
人工呼吸器を入れることだ。
口から管を入れ、気管の奥まで挿入し酸素を送り込む。
手術の時や自発呼吸が出来ない重症の状態の時に使われる。
その際、淳一は全身麻酔で眠らされることになる。
痛みや苦しみから解放される代わりに、笑う淳一、怒る淳一、泣く淳一をもう見ることが出来なくなる。
安らかに眠る淳一を見る代わりに、淳一の感情に触れることが出来ない。
もうこれ以上苦しむところを見たくない。
私は人工呼吸器を入れることに、少し気持ちが傾いた。
「いや、入れません」
妻ははっきりと応える。
「頑張らせます。まだ、希望を捨てたわけではないのですから」
妻の目が涙でいっぱいになった。
そして、頬を伝った。
「分かりました」
T医師もはっきりと言い、分厚いカルテのファイルを閉じる。
そのファイルには淳一が病院で闘った記録が詳細に残されている。
何度も広ろげられたファイルのパンチ穴はところどころ破れていた。
ファイルの厚さは淳一の苦しみの積み重ねでもあった。
「しばらく、この部屋を使っていただいても良いですから」
落ち着くまでカンファレンスルームにいるようにと、T医師は泣いている妻を気づかってくれる。
病室にひとりでいる淳一が気に掛かるので、私は妻を残して先に病室に戻った。
淳一はぼんやりと点滴の管を見つめていた。
「長く掛かるけど、良くなってくるって」
私は平静を装って、ウソをつく。
黙ったままで、全く反応が無かった。

昼から通夜に出席するため、京都へ向かった。
叔母さんの家は通夜の準備が整い、ほとんどの親戚が集まっていた。
叔母さんは7人兄弟の長女で、下に妹が二人、弟が4人いた。
私の母はすぐ下の次女になる。
長男は丹波の氷上郡に住んでいるが、他はみんな尼崎に住んでいる。
私が着くと、誰もが淳一の病状を訊いてくる。
「京都の叔母ちゃんから訊いていたのやけどね、何にもすることが出来なくてな」
「見舞いにもよう行けんとな」
「どうなんや、病状は」
顔を合わすたびに、心配そうに訊く。
その度に「うん、今ちょっと大変な状態で…」と、曖昧な返事をしていた。
私の疲れた表情に気を使ったのか、みんなそれ以上深く訊いてこなかった。
「諦めんとな、頑張るんやで」
みんなが励ましてくれる。
「幸雄君、あんたほんまに大変やな。頼りにしてた叔母さんまで亡くしてしまってな」
千恵子叔母さんがぽつりというと、胸に溜まっていたものが涙になって頬を伝った。
お通夜を終えて家に帰ると、妻はひとりリビングの椅子に座って泣いていた。

9月11日日曜日の朝、どんよりした曇り空だった。
衆議院選挙の投票に出かけた後、葬式に向かった。
親戚が勢揃いし、11時から自宅で葬儀が行われた。
叔母さんが生活していた狭い部屋は立派な葬祭場に変わっていた。
その見事な変わり様に感心しながら、叔母さんの生活空間を見る。
つい3日前まで寝起きしていた部屋に祭壇が設置され、遺影が飾られている。
紫色のあじさいの前で、叔母さんは笑っていた。
お向かいの家が取り壊されて空き地になっていたので、そこへ受付を置かせて貰っていた。
私はそこへ座って、受付を手伝った。
町内会の人、書道の会の人など、次々と弔問に訪れる。
こんな人とどんな関係を築いていたのだろうと思うような人たちが名刺を置いて焼香していた。
全員の焼香が終わると、栄子ちゃんが挨拶をして、式は終わった。
配車の都合で私は斎場へは行かず、家に残った。
三男に正ちゃんという名物叔父さんがいた。
とにかく、ビデオを撮影するのが好きで、葬式の間中、カメラを回していた。
結婚式場と契約していて、式の撮影に出かけては小遣い稼ぎをしている。
しかし、親戚の間ではあまり評判が良くなかった。
何故なら、その撮影した映像を編集無しで延々と披露し、講釈するからである。
そんな親戚たちの不評にもお構いなしに、式の間中、正ちゃん叔父さんはお経を唱えるお坊さんのすぐ横まで進んで、カメラを回していた。

1時間少しで、叔母さんは遺骨となって、帰ってきた。
葬式の後、初七日が行われ、お膳が出された。
叔母さんの想い出を語りながら、みんなで料理を食べた。
正ちゃん叔父さんは葬儀のビデオをテレビに映したそうにしていたが、居間のテレビは片付けられていた。
叔父さんは残念そうにしていたが、他のみんなはホッとしていた。
この1週間後の日曜日、私は全く同じ時間に息子の葬式を行った。

葬式を終えて、病院へ向かった。
淳一は酸素吸入器を口に当て、息苦しそうだった。
見ていて思わず涙が出た。
私は病室を出てデイルームで気持ちを落ち着かせた。
病室に戻ると、K医師が点滴に薬を入れていた。
痛みが激しいため、痛み止めを早送りで入れてもらっていた。
K医師が病室を出るとき、淳一ははっきりした声で「ありがとう、ございました」と言った。
終始ぼんやりとしている淳一が急にはっきりとした声を出したので、私は驚いた。
バスケットの試合終了の時に出す声と変わらないほど、精気に満ちていた。
しかし、その後はまたぐったりとして黙ったまま、空間を見つめていた。
8月初旬から1ヶ月以上栄養点滴だけで生き延びている身体はガリガリに痩せこけている。
皮膚は抗ガン剤の副作用で黒ずみ、髪の毛はほとんど無かった。
腹水が溜まっているためカエルのように膨れ、顔は浮腫んでいる。
そして、右目が充血していた。
私はそんな淳一を正視出来なかった。
見ているのが耐えられない。
それでもわずかな奇跡を信じて、3日間ハイカムチンの投与が行われた。
しかし、良くなる望みは徐々に薄れていく。
ただ痛みを抑えるだけの終末医療が始まっていた。
私はベッドの横に座り、プレイステーションポータブルのゲームをしている。
ゴルフゲームが楽しい訳では無かった。
ただ、淳一が苦しんでいるのを正視出来ないだけだ。
横に座って気を紛らわせる以外に、時間を費やす方法が無かった。
背中を少しでも、さすってやれば良いのじゃないか。
手をつないでやれば、良いのじゃないか。
それが出来なかった。
情けない父親だった。
「お父さん、ゲームばかり、止めといて」
淳一は苦しそうに言った。
それが私に掛けた最後の言葉だった。
間抜けな父親である。

9月12日から、亜由美と妻がふたりで病院に泊まることになった。
小児病棟の決まりではひとりの患者に対してひとりの付き添いが泊まることを許されていた。
亜由美がT医師にお願いすると、二人で泊まることを特別に許可してくれた。
いつもは会社を終えて病院へ立ち寄ると、どちらか泊まりを残して車で帰っていた。
二人が泊まることになると、私はひとりで車で帰り、翌日朝早く車で病院へ立ち寄り、そこから会社へ行かなければならなかった。

朝夕はめっきり涼しくなった。
どこからか鈴虫の鳴き声が聞こえてくる。
9月13日、「寝ているばっかり、嫌や」と言い、車椅子に座りたいと突然言い出した。
痛み止めの点滴を早送りしてから、K医師と看護師が淳一を抱え、車椅子に乗せ窓際まで連れていった。
「外、見えるか」とK医師が言ったが、淳一は眠っていた。
その光景を見て、妻も亜由美も義母も、そして看護師も泣いていた。
その夕方、少年バレーで監督をしていたNさんが見舞いにやって来て、手作りの弁当を届けてくれた。
夜遅く、デイルームで妻とそれを食べた。
閑散としたデイルームに、テレビの音だけ響いている。
ニュースは衆議院選挙での自民党の歴史的な大勝を伝えていた。
「なんで、あの子あんなことを言ったのやろ」
黙々と食べていると、妻がふと思い出したように言う。
「何を」
「ちょっと前、亜由美に<お姉ちゃん、ありがとう>って」
「…」
私は返す言葉もなく、箸を置いて窓の外を見た。
太陽の塔が暗闇の中に滲んで見えた。