その3
 
 




私は重い気持ちを引きずりながら帰宅した。
恐る恐る2階のリビングに入ると、 淳一は隣りの和室でファミコンをしている。
全くいつもと変わらない家庭の風景である。
食事を終えてから、妻が病院での話をする。
淳一がいる手前、不安な気持ちを抑えながら努めて明るく話しているのが分かる。
ただのデキモノが出来て、大きな病院で取ってしまえば、すぐに元の生活に戻れると。
しかし医者の口調から、現実はそんな簡単なことではないと感じ取れたらしい。

7月下旬、淳一は中学最後の試合に臨んでいた。
新人戦の兵庫県大会で優勝して以来、常勝チームだった松崎中学のバスケットボールクラブは全国を目指して、夏季総体を闘った。
その大会は伊丹市内の大会から阪神大会、県大会、近畿大会と進み、近畿大会で2校だけが全国大会に行く。
伊丹の市内大会に優勝し阪神大会へ進んだが、ここで転けてしまった。
いつも練習試合では勝っていたチームに、準決勝でコロッと負けてしまったのだ。
県大会へ進めるのは決勝の2校のみで、練習に明け暮れた淳一のバスケットクラブの生活はここで終わった。
淳一が胸の痛みを訴えたのはそれから1週間ほど経った日のことだった。
「この辺が少し痛い」と妻に胸骨のあたりを示していう。
「恐らく、最後の準決勝が荒い試合だったので、ひじでも当たったのかも」という妻の言葉をなんの疑いも無く、私は受け入れていた。
そう深刻な痛みがある様子でも無かった。
悪性腫瘍の種類によって、痛みが無く痛みを感じた時はかなり進行しているものがある。
チームで一番よく動き回り一番体力があるといわれていた息子が「胸が痛い」といった程度で、命に関わる重篤な病気に掛かっていると解るはずもなかった。
朝から晩まで出突っ張りのみのもんたや北野たけしが実は重病に掛かっていますと芸能ニュースで流れたら、「ああ、やっぱりな」と思うけれども、大リーグで活躍する松井やイチローが命に関わる病気に掛かっていると言われても信じられるだろうか。
淳一は赤ん坊の時からよく動き回る子供だった。
元気な子だった。
喘息の気があったが、何日も学校を休むようなことは無かった。
小学3年生から少年バレーを始めたが、スポーツ選手にありがちな骨や筋肉の痛みで整形外科や整骨院などの世話になったことがあるものの、内臓の疾患で大きな病気をしたことは無かった。
小学校4年の正月明け、虫垂炎に掛かり薬で散らすため2週間程度入院したことはあったが。

その年の夏、猛暑が続いた。
夏休みの間、バスケットボールを引退した淳一は時折後輩たちの練習に出かけた。
高校に進んでもバスケットは続けるつもりでいたので、将来へ向けての練習がしたかったようだ。
しかし、普段よく動き回っていた淳一は胸の痛みがあるためか、コートの外で休みがちになっていた。
お盆前、少年バレーの友達鬼塚君が神奈川から遊びにやってくる。
3日間滞在している間、一緒に神戸やUSJに出かけた。
少年バレーの後輩たちが練習をしている体育館にも一緒に出かけ、久しぶりのバレーボールもした。
後日入院した淳一が言っていたが、ここでも胸の痛みが激しく、アタックするのにジャンプが出来なかったらしい。
お盆も終わった頃、余り胸の痛みを訴えるので、妻が近くの整形外科へ連れていく。
レントゲンを撮り診察してもらうが、異常なしとの結果だった。
この頃、淳一は妻に「なんか、おかしな病気と違うかな」と言っていたという。
恐らく、それは重たく身体に響くような不気味な痛みだったのだろう。
私は整形外科の診察結果を疑うことなど全くなかったし、子供のことだから打ち身を大げさに言っているのだろうぐらいに思っていた。
私の脳裏から、淳一の胸の痛みは全く消えていた。
8月下旬、私たち家族は10年ぶりの旅行をした。
久しぶりだった。
長女の亜由美が中学に入ったころから今まで、家族がそれぞれに忙しかった。
飼っていた愛犬ウランと一緒に泊まれる宿を探し、大山へ出かけた。
その一週間後、バスケットの親しい友人とその家族とで天橋立へ一泊二日の旅行をする。
この旅行で妻が体験したことが後に、私たち夫婦を深く落ち込ませることになる。
その旅行中も、淳一が胸の痛みを訴えたことは無かった。
9月に入り2学期が始まってから、淳一は頻繁に痛みを訴えるようになる。
「打ち身にしては痛みが長すぎる」と妻は近くの伊藤クリニックで診察を受けさせた。
伊藤クリニックは妻も私の両親もそして義母も世話になっている、家庭医のような存在だった。
レントゲンの結果、「胸部に影が見られるから、伊丹市民病院で検査をするように」と言われる。
「影が写っているといっても、心配しなくても。念のためだから」と付け加え、紹介状を書いてくれた。
伊藤先生は不安な表情を見せる妻を安心させようとして言ったのだろう。
しかし、何度も淳一を診て貰っている先生にとって、レントゲンに写っている影が尋常なものではないと感じ取れたに違いない。

腫瘍の存在が判った翌日は秋分の日で、義母を交えて家族みんなで墓参りに出かけた。
墓は6年程前に購入したもので、池田の五月山にある。
集団墓地は大阪を一望出来る山の斜面に並んでいる。
購入して以来、家族そろって墓参りをするのは初めてのことだ。
この時、順番から言えば私の両親が先に入るであろうその墓に、淳一が真っ先に入ることになろうとは誰が想像しただろうか。
墓参りの帰り、肉料理の三田屋で昼食を食べた。
私は今でもその時の光景を覚えている。
ピアノが鳴る店内はファミリーレストランにしては豪華な雰囲気だった。
値段も高めだったが、久しぶりに家族が揃ったこともあって、ステーキのコース料理を食べた。
私はビールを注文した。
これがいけなかった。
酔いが身体に回った時、押さえていた感情が一気に噴きこぼれてきたのだ。
墓参りの間、私は淳一の胸が気に掛かって仕方がなかった。
息子の外見はバスケットをしていた時と全く変わらないが、身体の奥底でふつふつと悪戯な細胞が増殖しているのではないかと思えてならない。
その意識が鉄の塊のようにぶら下がっていた。
そして、私は食事中思わず落涙したのである。
慌ててトイレに駆け込み、落ち着きを取り戻してから、席に戻った。
アルコールの影響で顔も目も赤くなっていたため、幸い気づかれずに済んだ。
さらにその二日後、中学最後の運動会があったのだが、気持ちの揺れはもっとひどかった。
淳一は800m走や機械体操に出場した。
明るい秋の日差しの中で元気に動き回る生徒たち。
それを見つめる保護者たち。
誰もが私とは正反対の世界にいる気がしてならなかった。
淳一の身体に出来た腫瘍がどんなものであるかこの時点では判らなかったが、これから息子が経験しなければならない治療のことや学校を離れての病院生活を思うと、居たたまれない不安が襲ってくる。
何故私の息子だけがこんな目に遭うのか。
みんなと同じように元気に、走っているのではないか。
腫瘍が出来ているなんて、冗談ではないのか。
グラウンドをゆっくり走っている姿を見ていて、思わず目頭が熱くなってくる。
情けないほど涙があふれてくるのだ。
後に息子の友達の親が言っていたのだが、ハンカチで涙を拭いている私の姿を見て不思議の思ったらしい。
涙を隠すためのサングラスを家まで取りに戻って、昼からの演技を観たほどだった。

この頃、私も妻もよく泣いた。
病気とは全く無縁だと思っていた息子の身体に、得体の知れないものが巣くっている。
夜になると、不気味な不安が襲ってくる。
目の前にいる淳一の姿がいままでと変わらず元気なだけに、腫瘍が出来ているという現実との落差が重たくのしかかってくる。
私と妻を異常なほど不安な気持ちに落ち込ませたのには、別の理由があった。
8月末にバスケットの友達と行った天橋立で、妻が見たものと関係している。
今から考えると、バカバカしいことかもしれない。
しかしそんなバカバカしいことが、その頃の私と妻を不安な気持ちにさせる大きな要因だったのである。