その5
 
 




入院前、妻と淳一が検査のために病院へ出かけた時のことだ。
玄関先で、 女の人は大声を上げて泣いている。
それを数人の男性が女性の肩を抱きかかえるようにしていた。
「大丈夫、必ず治るから」
そう何度も言って、男たちが泣いている女性を慰めていた。
女性が自身のことで泣いているのか、家族のことで泣いているのか事情は判らないが、妻はこの光景を見て、これから始まる病院生活の大変さを感じたという。
淳一はどう感じたのだろうか。
病院へ通っている間、私はいろんな光景を見た。
非常階段でひとりうなだれている老人、泣きながら電話をしている老女、医者を怒鳴りつけている女性、エレベーターで「こんな生活、もう嫌や」とつぶやいている男…。
病院は世の中の不運を集めている。
人は、自分の力ではどうしようも出来ない運命に、歯を食いしばって耐えている。
ここでみんなは一様に「なんで?」という言葉を口にする。
「なんで、自分が?」
「なんで、お父さんが?」
「なんで、子供が?」
他の人々は元気に街を歩いているやないかと思う。
他の子供は公園を走る回っているやないかとも。
仕方がないことだと自分に言い聞かせるのだが、与えられる運命の不条理さにいらだつのだ。

9月27日、診察のために大阪大学医学部附属病院へ出かけた。
病院の南には広大な万博公園が広がっている。
大阪万国博覧会が開催されたのは1970年のことだから、35年も昔のことだ。
私が高校生の頃で、人が多さにうんざりしながらもパビリオンの行列に並んだのを思い出す。
「夏草や つわものどもの 夢のあと」
芭蕉の句のように、昔のにぎわいを感じるものは無く、大阪府民が憩う静かな公園に変わっている。
ただ、万博の象徴だった岡本太郎の太陽の塔だけが緑の木々の間にヌッと突き出し、往時の雰囲気を思い出させる。
公園の南と東にモノレールが走り、ガンバ大阪のホームグラウンドであるサッカースタジアムがある。
伊丹の家からは171号線を車で東へ走り、中央縦貫に入る。
太陽の塔が見えたころに、公園を一周する道路に入り、半周したところで阪大医学部のビル群が見えてくる。
医大生や研究者たちが現代の病や細菌などと闘っている場所だ。
付属病院はモノレールの駅に隣接している。
「彩都線」といい、そこが終点であり、2年後にはその先の駅が開業することになっている。
家から病院までは車で30分ほど掛かる。
しかし、桜や連休などの行楽時期には公園の回りの道路は渋滞し、40分から50分になる。
万博公園で行われるイベントやサッカー球場のガンバの試合の時も周辺は車で溢れる。
私はこの周回道路をいろんな気持ちを抱えながら、数え切れないほど往復することになる。
その日、私は会社を半休し、朝から息子の診察に付き添った。
初めて見た病院の印象は「恐ろしく大きい」だった。
その大きさは不安を抱える私たちにとって、頼もしさでもあった。
広々とした受付にはたくさんの人が順番を待っている。
大学病院では 紹介状を持たない患者の初診料が高く設定されている。
保険が適用されるのは2550円までで、当然上乗せの料金は全部が患者負担になる。
たとえば、有名人などが入院してよく耳にする慶応大病院、虎の門病院などの初診料は5250円も上乗せされているという。
この阪大病院でも紹介状を持たない患者の初診料の上乗せが行われている。
それは大学病院や大規模な病院に患者が集中してしまわないためである。
それでも多くの患者がここを訪れるのは高度な医術を期待しているからだ。
紹介状を持った私たちは受付で30分ほど手続きの時間を要し、呼吸器外科に回される。
何故呼吸器外科なのかというと、腫瘍が縦隔(じゅうかく)という場所にあったからだ。
縱隔とは、左右の肺に挟まれた部位で、気管や食道、心臓なとの位置を指す。
当然この頃は病名が判らず、最初に診察してもらったIクリニックの先生によると、縦隔に出来た「胸腺腫」ではないかということだった。
胸腺は身体のほぼ中央で胸骨の後ろ、心臓の前面にある小さな臓器を指す。
それは胎児から幼児にかけては身体の免疫をつかさどる重要な働きをもっているのだが、成人になるとその機能を終えて退化するらしい。
胸腺腫は、この退化した胸腺の細胞から発生する腫瘍だ。
これも悪性と良性があり、良性だとほとんどが完治する。
私はこの病名を知らされたとき、インターネットで調べては「良性は完治する」という文字に安堵したものである。
しかし、実際は全く違ったものだった。
今まで聞いたこともない病名を告げられるまで、それから1ヶ月余り要することになる。
呼吸器外科で再び30分ほど待ち、名前を呼ばれた。
3人で診察室に入った。
すでに受付で渡していた、伊丹市民病院で撮影したCTの画像を、I医師は食い入るように見ていた。
歳は40歳前半だろうか、少し頭髪が後退している。
淳一が医師の前の椅子に座り、私と妻はその後ろに立った。
私は画像が掛けられたライトビュアーに目をやる。
輪切りにされた胸部のCT画像が何枚も並んでいる。
腫瘍は画像を見慣れていない素人の私にでも、その位置が判った。
それだけ大きく、鮮明だった。
まん丸い月のようだ。
「胸の痛みがあったのはいつから?」
医師は妻と淳一を交互に見ながら言った。
「8月のはじめ頃に胸が痛いと言い出しました」
妻が応える。
「そう?」
医師は淳一に尋ねる。
「…もうちょっと前から痛かった…」
しどろもどろに応えると、
「もう少し前とは6月頃、7月頃かな?」
「ううん…6月頃かも、…」
「どんな痛みかな?ズキンズキンするの?キリキリと痛む?」
「…ズキンズキン…」
「今も痛む?」
「いや、今は別に」
妻がバスケットの試合が終わった後、急に胸の痛みを訴えた経過を説明した。
医師は淳一の両目を見た後、上着を上げて胸を見せるように指示する。
「バスケットしてたんやな」
そう言いながら、触診をする。
「ここは痛いか?」と医師は訊くと、淳一は首を振った。
その時、痛みがほとんど無い様子だった。
医師は淳一や家族の病歴をを訊ねた。
妻は小学校の時に盲腸で入院したことや父親が阪大病院で20年程前に肝臓ガンで亡くなったことを告げる。
そして、淳一が生まれる時、切迫早産の危険から2ヶ月ほど入院生活を強いられたことを付け加えた。
妻がそのことを話したのはその時に投与し続けた流産抑制剤が淳一の腫瘍と何らかの関係があるのではないかとの疑いを持っていたからだ。
確かに、流産抑制剤に発ガン作用があることは報道されたことがあった。
医師は頷きながら訊いていた。
そして、「他に家族でガンを患った人は?」と訊く。
「ええと、あ、そう」と私は60歳前に足に出来たガンで入院し亡くなった叔父さんのことを思い出し、そのことを話した。
それから医師は横のベッドに仰向けで寝るよう指示する。
パンツを下ろして下半身を見せるようにと言う。
恥ずかしそうにする淳一に気遣い、医師は看護士から見えないようにカーテンを引いた。
ためらいながら、淳一は医師の前で下半身を露わにした。
睾丸のまわりを触診をしながら、「ここは痛くないか」と訊く。
この時、医師はある病気を疑いながら診察していたのだろう。
淳一の場合そこに病変が表れてなかったが、患った病気からすると、その疑いは正しかったことになる。
一通り診察を終えると、医師は淡々とこれからの治療について説明した。
「胸に大きな腫瘍があるのは確かです。これが何なのかを検査をしながら確かめていく必要がありますので、いろんな検査をしていきます。当然入院ということになりますが、空きベットが出たらすぐに知らせますので、準備しておいてください」
そして、淳一に向かって言った。
「中学生やな。当分学校を休むことになるけど、早く治してまた学校へ行けるようにしないとな」
淳一は黙って頷く。
淳一が上着を着て診察室を出るまでの間、医師は小さな物差しでCT画像に写っている腫瘍の大きさを測っていた。
これから淳一と私たち家族が闘わなければならない敵がくっきりと写し出されている。
それは直径5cmにも成長していた。