その8
10月25日月曜日、午前中会社を休み、私は病院へ出かけた。
9階のデイルームで待っていると、T医師が現れてカンファレンスへ案内した。
T医師の他に、I医師と外科での担当医師、それにO医師と外科の担当看護士が加わる。
主にO医師が話をする。
O医師はアメリカの病院で勤務していたが、最近阪大病院に戻ってきたという。
日本では呼吸器、消化器、循環器などと専門医が分かれているいて、腫瘍の専門医というのはあまり聞かない。
アメリカにはオンコロジストといって、腫瘍の専門医がいる。
主に抗ガン剤治療の専門家であり、O医師はそのオンコロジストだ。
ポロシャツに綿パン姿で、ラフに白衣を着ている。
面構えはどことなく、川谷拓三風である。
まだ生検の結果が出ていないので腫瘍の種類が判らないが、当初言っていた悪性リンパ腫ではないという。
ライトビュアーに最新のCT画像とレントゲンの画像が掲げられている。
「最初に診察した時のCT画像から比較すると、かなり腫瘍が大きくなっています」
現在の腫瘍の大きさでは手術は不可能であること、まず抗ガン剤を投与して腫瘍を小さくしてから手術の可能性を検討すること、など4日前の説明を繰り返した。
そして、昼から抗ガン剤の投与を始めると伝え、再度、副作用について説明をした。
抗ガン剤は何種類かの薬を組み合わせて、投与する。
淳一の場合、一回目は3種類の抗ガン剤を5日間に分けて投与された。
エンドキサン、ピノルビンとランダという薬だった。
エンドキサンは10月25日の昼から1日だけ、ピノルビンはその3日後10月27日に1日だけ、ランダは10月25日から29日まで5日間の毎日投与された。
どれも強い副作用がある。
白血球の減少、脱毛 、悪心、嘔吐 、食欲不振 、口や唇のただれ、下痢 など。
副作用は個人差があると言っていたが、淳一はすべての副作用を経験することになる。
「白血球の減少による感染症が一番心配なので、それに細心の注意をしながら、看護していかなければなりません」
付き添いする介護者の注意事項を説明した。
一番端にいる看護士の女性がO医師の話を熱心にメモしている。
介護者は常時手洗いとうがいをして患者に接しなければいけない。
食事の際、生ものは厳禁。
常に、食べ物に火を通すか、電子レンジに掛けてから食べなければならない。
デイルームには電子レンジが置いてあった。
淳一の場合、副作用で流動物しか受け付けず、食べるどころではなかった。
人によって違いはあるが、白血球の減少は化学治療が終わって5日から14日後に起こってくる。
通常1立法ミリメートルの血液中に3000から8000の白血球があるのだが、これがひどいときには200程度まで落ち込む。
もう少し詳しく白血球のことを書くと、白血球は好中球、好酸球、好塩基球、リンパ球などの種類があり、その大部分は好中球とリンパ球である。
好中球は細菌の病気を、リンパ球はウイルスの病気を防いだり、治したりする役割がある。
だから、白血球が少なくなると、免疫力が低下し、細菌やウィルスに感染しやすくなる。
白血球の数が減少し続けるが、やがて抗ガン剤が切れてくると、骨髄は立ち直り白血球は次第に増加してくる。
これも人によって、立ち直る日数に違いはある。
淳一の場合、骨髄が異常に元気だったため、白血球が立ち上がってくる日はかなり早かった。
白血球が立ち上がるまでの期間は普通約3週間から一ヶ月、これを1クールとして、繰り返される。
かといって、何度も繰り返し出来ない。
骨髄を始めとする他の臓器の機能を低下させるので、身体がぼろぼろになっていく。
そもそも、抗ガン剤はガンをやっつけるための毒である。
毒は身体の正常な働きも阻害するのである。
ガンは小さくなったとしても、他の重大な病気を併発しては何にもならない。
人によって差異はあるが、通常5クール程度で化学治療は終了する。
しかし、淳一の骨髄はかなり強く、亡くなるまでの間に12クールも抗ガン剤の投与を繰り返した。

昼食後、抗ガン剤の投与が始まった。
私は昼から会社へ出かけたが、夜、妻の話では副作用は無く、夕食は食べたということだった。
しかし、翌日から副作用が始まった。
妻が電話で、激しい嘔吐を繰り返して、ご飯を食べるどころではないと伝えてくる。
「淳一は強い子やわ。泣き言ひとつ言わないで、顔を真っ赤にしてぶるぶる汗を流しながら、必死に耐えているんやもん」
次の日の朝、妻が昨日の様子を伝えると、私は思わず涙を流した。
必死で耐えている淳一の姿を想像するだけで、胸の中に溜まった感情が噴きこぼれてくる。
そしてその日の朝、人前で大粒の涙をこぼしてしまうという失態を演じてしまった。
午前中、大阪本社で月に一回のマネージャー会議があった。
早めに本社の会議室に入り、ひとりぼんやりしていると、社長が現れた。
社長は親会社であるK電鉄の運輸担当部長でもあり、我が社が新会社として再編される時、社長に就任している。
年齢は私より、5つ若い。
「ちょっと聞いたのやけど、息子さん大変なんやな」
社長は上司であるY部長から事情を聞いていたようだ。
「急に病気になりまして。一昨日から化学治療が始まりまして…」と言いかけたまでは良かったが、この時淳一が必死で副作用に耐えている姿がふっと頭をよぎった。
突然、コップの水が噴きこぼれるように涙が溢れ、次の言葉が出ない。
社長の前でしゃくりあげるように落涙していた。
見境もなく涙している姿に戸惑ったのだろう、社長は「お大事にな」と言って、その場を立ち去った。
もうすぐ会議が始まるので、私は慌ててトイレに駆け込んで気持ちを落ち着けた。
歳を重ねて、涙腺はかなり緩くなっていたのだが、この頃は特にひどかった。
情けない程に、気持ちが揺れていた。

抗ガン剤の投与が始まって数日、私は病院へ行けなかった。
年末の仕事で様々な問題が発生し、忙しかったのは事実だ。
しかし今から思うと、行けなかったというより避けていたというほうが正しいかもしれない。
情けないが、副作用に苦しんでいる自分の息子の姿を正面から見る勇気が無かった。
妻が電話やメールで頻繁に、淳一が洗面器を持って嘔吐している様子を伝えてくる。
想像するだけで、居たたまれない気持ちになる。
休みになった土曜日、私は恐る恐る9階の病室に入った。
淳一はぐったりした様子で、ベッドに横たわり目を閉じていた。
私が近寄ると、うっすらと目を開ける。
「しんどいか」と聞くと、かすかにうなずく。
ベッドの横に吐瀉物を受ける入れ物とティッシュが置いてあった。
「大ぶん、ましになったのよ」とベッドの横で座っている妻が言う。
その日は淳一の眠っている横で、一日過ごした。
吐き気がこみ上げてくるのか、時折「オエーッ」と嘔吐し、慌てて妻と娘は入れ物とティッシュを淳一の口元に運んだ。
それを何度も繰り返す。
ふたりの慣れた手つきは、これまでのどれだけ「オエーッ」を繰り返していたかを想像させた。
水分以外ほとんど口に入れていないので、出てくるのは胃液だけだった。
昼過ぎ、妻と娘は吐瀉物の処理の仕方を私に教えてから、買い物に出かけた。
久しぶりに淳一とふたりっきりになった。
「テレビ、付けたろうか」と私がいうと、淳一は弱々しく首を振る。
テレビを観るのもツライ様子だった。
私は静かな病室で、置いてあった漫画を読んだ。
淳一は薄目と開けて、ぼんやりと私を見ている。
何か話したそうにしているのが感じ取れた。
私は淳一が聞いてくることに身構えていた。
それは「僕、ガンなんか?」と言う言葉に対する返答である。
「ガンは悪性の腫瘍のことをいうのや。お前の腫瘍は良性で、しっかり治療したら治るから」
そんな言葉を用意していた。
「お父さん」
淳一がか細い声で言う。
私は心の動揺を見過ごされないように、「なんや?」と言ってゆっくりと漫画から目を離した。
「入院、長くなりそうやな」
「そうやな」
「早く切ってしまうこと出来ないのかなぁ」
「お前の胸のデキモノは手術するより薬で散らしてしまうほうが良いそうや。先生が言ってた。この阪大病院は日本でも最先端の病院やからな、任せといたら大丈夫や」
淳一はにこりと笑った。
私はホッとする。
「長くなっても、1年くらい学校を遅れてもええやんか」
そう言って、私は高校時代の同級生の話をした。
その同級生は2年先輩だったが、結核で2年休学したため私を同じクラスにいた。
2年年下の私たちから「さん」づけにされることなく、後輩たちと学校生活を送るのに、その同級生から暗さやためらいは感じられなかった。
「3ヶ月や4ヶ月入院しても、大したことないな」と言って、淳一は自ら納得したようにうなずく。
その頃の淳一はそれくらいの期間で退院出来るものと思っていたようだ。
「だいぶ、細くなったやろ」
淳一は少し身体を起こして、太股をつかんだ。
「クラブしている時は、両手でもつかまれへんかったのに」
寂しそうな表情に見えた。
「また、すぐ元に戻る。元気になったらな」
慰めるように、私は応えた。
こんな親子らしい会話をしたのは何年ぶりだろうか。
淳一は私が何度も医者から病気についての説明を受けているのを知っていて、その説明の内容を聞きたがっているようにも思える。
私の考え過ぎかもしれないが…。
淳一はテレビを付けて欲しいと言って、会話は終わった。
テレビではイラクで人質になっていた日本人の若者が処刑されたことを伝えていた。
1回目の化学治療が終わり、淳一の白血球の数は次第に減少していった。

それから2日後の11月1日、6階の小児科へ移った。
ベッドは4人部屋の廊下側になった。
闘病中、個室と4人部屋を何度となく移動するが、最初の小児科の環境は最悪だった。
4人の部屋には、他に2人の子供が入院していた。
2人とも白血病だ。
化学治療が済んだばかりの様子で、かなり白血球の数値が下がっているということだった。
その為、枕元に空気清浄機(アイソレーター)が備え付けられており、その機械の熱気で部屋は真夏のような暑さだった。
11月というのに、淳一はTシャツとランパンのスタイルでベットに横たわり、看護する妻も娘もTシャツ姿である。
無菌の状態を維持するため、ドアや窓を開けるわけにはいかない。
同室のK君は淳一より2つ年下の中学1年生ということだったが、身体が小さく、とても中学生には見えない。
小学生で白血病を発症し、何度も入退院を繰り返している。
化学治療の影響から、髪の毛はほとんど抜けていた。
隣の窓側のT君は小学3年生。
化学治療の副作用がひどく、時折激しく嘔吐している。
T君も髪の毛はほとんど無い。
淳一はまだ1回目の化学治療を終えたばかりで、髪の毛が抜ける兆候はまだ現れていない。
この頃、髪の毛が抜けるのを気にしていた淳一は「僕は髪の毛、抜けないのと違うかな」なんて、呟いていた。
妻がそのことをT医師に伝えると、「絶対、抜けますから」と断言していた。
抗ガン剤はガン細胞の増殖を抑える。
それと同時に正常細胞の活動にも影響を与える。
つまり、細胞を再生する働きが最も活発なところにも、攻撃を加えてしまうのだ。
細胞を再生する活動がさかんなところが、血液を作り出す骨髄や髪の毛が生え替わる頭皮なのである。

11月4日、私は会社を早めに出る。
T医師から「説明したいことがあるので、早めに病院へ来られないか」との連絡が入ったからである。
午後5時半に病院へ行くと、早速カンファレンスルームに案内された。
小児科のデイルームは他の階と違って少し狭くなっている。
スペースの半分ほどが、子供用のプレイルームになっているからである。
プレイルームには点滴を付けたまま、積み木遊びをしている子供がいた。
小児病棟はデイルームを境にして、小児外科と小児内科に分かれている。
カンファレンスルームはデイルームと小児外科のナースステーションとの間にある。
以後のカンファレンスはこの部屋で頻繁に受けることになる。
説明に現れたのはT医師とO医師、それに担当の看護士だった。
細長い部屋に長細い机と長椅子がある。
その横にいつものライトビュアーがあり、見慣れた淳一のCT画像が掲げられている。
「ええっと、淳一君の病名なんですが」と言うと、O医師が紙を机に置いて、文字を書く。
横紋筋肉腫。
「おうもんきんにくしゅ、と読みます」
初めて耳にする病名である。
「先日の生検の結果、腫瘍の種類がこれだと判りました。こちらの検査の結果、横紋筋肉腫ではないかということだったのですが、念のため他の研究所で確かめてました。少し時間が掛かったのはその為です。やはり、結果は横紋筋肉腫でした」
確かに生検から20日が経過していた。
「数十万人にひとりの珍しい病気です。それに淳一君のように、縦隔の場所に出来るケースはその内の1%程度です」
淳一と同じ症例が数例しかないことを意味しているのだが、余りにも漠然とした数字だった。
私たちは筋肉のおかげで、飛んだり走ったりの運動が出来る。
そして、骨に付いているのが骨格筋と呼ばれるもので、人間が運動するのに重要な役割を担っている。
骨格筋には横紋筋と平滑筋がある。
筋肉繊維が交互に整然と並んで横縞紋様にみえるため横紋筋と言われる。
横紋筋は身体の至る所にある。
ちなみに、心臓も横紋筋で出来ている。
横紋筋肉腫は言葉どおり、横紋筋の細胞が異変を起こして出来る腫瘍である。
全体の3分の2は10歳未満の子供に発症するので、小児ガンの一種である。
腫瘍が発生する部位は目の周りや脳の表面が一番多く、続いて膀胱、前立腺や子宮などの泌尿生殖器、次いで手足に多く発症する。
淳一のように、胸の部分に出来るのは極めてまれなケースなのだ。
「腫瘍は大静脈という大きな血管と呼吸の通り道である気管、それに食道の管が通ってる、非常にやっかいな場所に出来ています。それに心臓にもかなり近い」
O医師は立ち上がって、ホワイトボードに簡単な胸の図を描き、話を続ける。
内容は前回と前々回の説明と重複している。
「出来ている場所が場所だけに、治療はかなり限られています。腫瘍が大きいだけに放射線治療するには、かなり広範囲に当てないといけないし、重要な臓器が近いので放射線を当てるとすれば、かなり慎重に行わないといけません。前に説明したように、手術については切り取る範囲が大きすぎるため難しいのです」
アメリカで過ごす時間が長かったせいなのか、手でジェスチャーを加えながら話をする。
「腫瘍の種類が判ったので、それにあった薬を選んで、化学治療を続けていきます」
淳一の骨髄が立ち直って、白血球や赤血球の数値が増えたら、すぐに2クール目の化学治療をするということだった。
説明の間、頻繁にCT画像が目に入ってくる。
私はぼんやりと、妻が天橋立で見たという老人の幽霊を思い浮かべていた。

1回目の抗ガン剤は効いていたのだろうか。
淳一の顔のむくみは投与の前と、ほとんど変わっていない。
やがて、下がっていた白血球の数は徐々に増えていった。
そして、次の土曜日、初めての外出許可が出た。
T医師の「土日、帰っていいよ」に、淳一はガッツポーズをして喜んだ。
昼から病院を出て、宝塚のモスバーガーに立ち寄ってから、自宅に戻った。
入院からちょうど1ヶ月ぶりの我が家である。
早速、バスケット仲間のK君とM君がやってきて、夕食を一緒に食べる。
淳一は親戚から送られてきた毛ガニを美味しそうに食べていた。
食欲はしっかりと戻っていた。
しかし、淳一はしきりに咳をしていた。
腫瘍が気管を圧迫しているのではないだろうか。
私は久しぶりに味わう家族団らんでも、不安で仕方がなかった。
その不安は数日後に行われる2回目の生体検査で、現実になった。