その9
淳一の闘病中、私は日記を書き続けた。
日記を書くなんて、中学生以来だ。
病気が判ってから亡くなるまでの間、それは100ページを超えている。
その日記を振り返り読みながら、私はこの文章を書いている。
あの時、こうしてやっていれば、良かったのでは。
あの時、淳一はどんな気持ちだったのだろうか。
思い出しながら、書いている。
反省や後悔がつきまとう、なかなかツライ作業だ。
中でも、2回目の生体検査を受けさせたことを最も悔いている。
あの時、承諾書にサインしなければ良かった。
淳一はあんな苦しい思いをしなくても済んだはずだ。
はっきりと後悔している。

「え、またですか」
私の前に、O医師とT医師が座っている。
「病名は横紋筋肉腫と判明したのですが、もう一度原発病巣から組織を採って、詳しく調べたいのです」
前回の生検は縦隔にある腫瘍から転移していたリンパ腺から組織を採った。
その時は悪性リンパ腫の疑いがあった。
しかし、生検の結果で、腫瘍は横紋筋肉腫と判り、胸部に位置している縦隔から腫瘍が発生したことが明らかになっている。
そこで再度、直接発生した場所から採取したいというのだ。
当然、私も妻も「病名が判ったのだから、もうそれで良いのでは」という気持ちだった。
O医師が戸惑っている私と妻に話す。
「横紋筋肉腫には主に胎児型と胞巣型と、2つの種類がありまして、その種類によって化学治療の薬の選び方も変わってきます」
細胞組織の型によって種類が分かれていて、横紋筋肉腫全体の半数以上が胎児型、約20%が胞巣型になる。
転移がない胎児型であれば、5年後の生存率は50%を超えているが、胞巣型だと25%以下になるという研究がある。
この生検の結果はかなり時間が掛かるのだが、淳一の場合、胞巣型だった。
しかも、脊椎に遠隔転移があった。
転移がある場合、生存率はさらに低下する。
一通りの説明が終わると、今度は外科から生検についての説明があるという。
デイルームで夕食を食べ病室でテレビを観て、T医師が呼びに来るのを待つ。
テレビのニュースは紀宮様がご婚約したことを伝えていた。
午後7時に面会時間が終わる院内放送が流れた。
2時間ほど経った8時30分、T医師がデイルームに現れた。
ナースステーションを曲がると個室病棟がある。
廊下をさらに進みむと、病室とは違った大学の教室のような部屋が並んでいる。
T医師はその一室へ案内した。
すぐにふたりの医師が現れた。
外科のK医師とN医師だ。
広い部屋はアコーデオンカーテンで仕切がされ、室内は雑然と、長机と椅子が置かれている。
3人の医師と、私たちは向かい合って座った。
K医師が紙に胸部の図を描いて、説明した。
その紙は今も、私の手元に残っている。
パンチ穴の空いた、入院経過用紙と書いた紙に書かれている。
悪性腫瘍、全身麻酔、病理診断、遺伝子異常、染色体などの文字が<みみずの這ったような字>で書かれている。
K医師のボールペンの持ち方は独特だった。
握るようにペンを立てて持ち、ぎこちなくペンを走らせる。
早口で、時折言葉に詰まりながら、話す。
横紋筋肉腫という病気や今後の治療方針について話していたが、内容は今までO医師の説明とほとんど重複していた。
説明はだらだらと長く、1時間半にも及んだ。
となりに座っている助手らしい医師が時折船を漕いでいた。
私も仕事で疲れていて、眠気を振り払うのに必死だった。
前回の生検は局部の麻酔で行われたが、今度は全身麻酔にするという。
喉元の下を切開し、そこから少し下にある腫瘍の一部を採取する。
今回の生検が前回より大掛かりなことは説明の執拗さから感じ取れる。
説明が一通り終わると、手術や病理検査の承諾書など数枚の用紙を差し出した。
拒否したらどうなるのだろうか、とふと考える。
1回目の生検で病名も判っていることだし、それで十分ではないのか。
極めて稀な病気なので、今後の研究の為に採取したいだけではないのだろうか。
いろいろ考えるが、「やっぱり、医者に任すしかないのかな」と思ってしまう。
拒否することで、今後淳一に対する医師の対応が変わってしまうのではないかという心配もあった。
インファームド・コンセントを徹底させるため、医師たちはすべてを開示し説明する。
そして、「どうしますか」と判断を求める。
でも、医学の知識が全く無い者にとって、スパッと決断を下すことなんて出来ない。
息子の命が掛かっているのだ。
狼狽し、迷うのは当然だ。
あれこれと考えるが、最終的には頭を下げ、医師たちが最良と判断するところに頼るしかない。
説明を聞きながら、私は最先端の医学に期待を寄せていた。
遺伝子異常や染色体などの言葉を並べられると、医学は私の知らないところでかなり進歩していて、遺
伝子操作によって腫瘍を消滅する方法があるのではないかという希望がわいてくる。
何か助かる糸口があるのではないか。
溺れる濁流の中で、つかまる小枝を探して、手足をバタバタさせているようである。
しかし、現実は冷たい。
ガンという病は、あざ笑うかのように、私たちの前に立ちはだかる。

翌日承諾書にサインをし、その翌日の11月17日、2度目の生検は行われた。
その日、私は営業のH君を連れて、琵琶湖周辺へ新規セールスしていた。
H君は7月、大阪本社から異動してきた。
大阪本社では内勤をしていて、営業は初めてだった。
鍛える意味で、一緒に新規セールスをしていたのだ。
本心、病院のことが気になって、セールスどころでは無かった。
しかし、下落していく営業所の成績を上げるには、新しい血で活性化するのが一番と考えていた。
H君の存在が沈滞した営業所に活力を与えることを期待していた。
夕方事務所に戻る頃、携帯電話が鳴る。
午後3時から生体検査は始まり、もう終わっているはずだった。
T医師が「説明したいことがあるから、出来るだけ早く病院に来て欲しい」ということだった。
私は河原町から阪急電車に乗り、南茨木でモノレールに乗り換える。
万博公園前で彩都線に乗り換えて、阪大病院前で降りる。
会社から病院へ行く場合、いつもこのルートを使う。
高い位置を走るモノレールは眺めが良い。
万博公園近くでは遊園地を眼下に見下ろして走り、広々とした芝生の公園が見える。
ゆっくりした速度で走るモノレールは行楽なら、のんびり気分が味わえるだろう。
しかし、急いでいる時は何ともじれったい速度である。
小児病棟に上がると、デイルームで妻と亜由美が私を待っていた。
妻と亜由美はすでに生検で起こったことを、K医師から聞いていた。
T医師が現れると、私と妻がカンファレンスルームに入った。
生検は当初全身麻酔で行うと言っていたが、局部麻酔に変更して行われた。
ところが、切開している途中急に自発呼吸が出来なくなり、急遽気管チューブを挿入して、全身麻酔に切り替えたという。
原因は腫瘍の圧迫らしい。
腫瘍が大きくなってきており、大静脈や気管、食道を圧迫していることは生検前から判っていた。
T医師の説明では生検の際、仰向けに寝かせて切開を行っている内に、腫瘍の重みが気管を圧迫して自発呼吸が困難になったとのことである。
「急に呼吸に影響を与える心配はないと言っていたのと違いますか」
私はT医師にいう。
生検前から淳一は頻繁に咳をしていた。
その時O医師に訊くと、「確かに、腫瘍が大きくなってくると、気管を圧迫する心配はありますが、急に呼吸困難になることはないでしょう」と言っていたはずだ。
「ガンの進行は予想以上に早くなっているようです」
T医師はそう言うと、「一刻も早く、抗ガン剤の投与をして、腫瘍を小さくする必要があります」
今まで落ち着いていたT医師の態度が次第に緊迫した雰囲気に変わっていく。
「今、淳一君は1階の高度救急救命センターで治療をしています。これから、1階に降りて面会してもらいますが、お父さんもお母さんも、淳一君を見て少し驚かれるかもしれません」
少し間をおいて、「でも、今は安定しているので安心してください」と慰めるように言う。
T医師は準備が出来たら案内しますからといって、慌ただしく立ち去った。
私と妻と娘はデイルームで待っていた。
子供たちが付き添いの母親と夕食を食べている。
ほとんどの子供たちは点滴をつないでおり、髪の毛は抜け落ちている。
その中に、淳一と同じ横紋筋肉腫の女の子がいた。
妻の話によると、その子は幼児の時に、足から発症し何度も化学治療や手術を経験しているという。
髪の毛があれば、元気な子供と変わらないように見えた。
「じゃ、行きましょう」
しばらくすると、T医師が現れて、私たちを1階まで案内した。
高度救急救命センターは1階通用口の横にある。
面会に来るとき、いつもその前を通る。
時折救急車が止まって、救急患者を運び入れているのを、私は何度か見ている。
自動扉を入ると、長椅子が5脚ほど置かれた待合室がある。
そこで指定の草履に履き替え、手を消毒し、マスクをしてから入室する。
入室出来る時間は原則、午後1時から45分までの一日一回だけである。
それに面会出来るのは二人だけ。
「準備が出来次第呼びますから、ここで待っていてください」
そういって、T医師はセンターの中へ入っていった。
私たち3人は長椅子に座った。
何組かのグループが面会の許可を待っている。
どの人たちも不安そうな面もちに見える。
待っている人々は時折声を押し殺して会話を交わし、みんなうつむき加減で座っている。
警察官と救命士が現れて、入り口近くで家族を交えてヒソヒソと話をしている。
交通事故なのだろうか。
やがて、T医師が現れた。
「それじゃ、どうぞ入りましょう」
私がうなずくと、マスクと手の消毒を促し、中へ案内した。
通常は二人しか面会出来ないのだが、その時は妻と亜由美と3人で入った。
部屋の両端にベッドが並べられているが、それぞれカーテンで仕切られていて、全く患者たちは見えない。
たくさんの蛍光灯が天井を這い、夜と思えないほどの明るさだった。
ピッピッという機械音が聞こえる。
真ん中で医師や看護士たちが忙しく、動き回っている。
ところ狭しと医療機器が置かれている。
ここには生きること、死ぬことの意味を問う余裕なんてない。
ただ、心臓の鼓動を聞くために、全神経を集中する。
T医師が中央まで進み、カーテンを開けて入る。
私たちが続いて入った。
淳一がベッドに寝ている姿を見て、私は愕然とした。
「なんで、こんなことに」と言って立ちすくみ、ただ涙がこぼれ落ちてくる。
妻はベッドに近づき、淳一の手を触った。
淳一は薄目を開いて、眠っている。
両手と両足はベッドに縛られた状態で、口に管が挿入され、点滴が数本ぶら下がっている。
口からの管はベッドの横にある機械につながり、そこに取り付けてある風船のようなものが、 スーハー、スーハーと淳一の呼吸に合わせて、膨らんでは縮み、縮んでは膨らんでいる。
枕元に置いてある機械は淳一の状態を数値やグラフで表している。
ピッピッと規則正しく、機械音を刻んでいる。
「少し、驚かれたと思います。麻酔で眠った状態です。容態は安定しています。眠っている間、手で気管のチューブや点滴の管を触らないように縛っています」
安心させるためか、T医師は少し笑みを浮かべた。
「ここは24時間、人が付いていますから、異常があればすぐに対応できることになっています」
突然、となりのベッドから声がする。
「お爺ちゃん、何で死のうとしたんですか」
救命士か警察官のようだ。
患者に声を掛けているようだが、反応は聞こえてこない。
「あのう、これは何ですか」
私は涙を拭いながら、淳一の足の親指に付いている線を指さして訊ねる。
「ああ、これはセンサーで血液の酸素濃度を感知するものです。この数字がそれです」
T医師は98、96、99、97と時折変化する数字を指し示す。
数値が極端に下がってくると、ピッピッと音がなり危険を知らせる。
T医師は点滴の状態を確認してから、「後で来ます」と言ってその場を立ち去った。
妻と亜由美は涙を流しながら、淳一の手足や頭をさすり、私はただ呆然と立ちつくしている。
つい3ヶ月前まで、蒸し暑い体育館を走り回っていたではないか。
バスケットのチームの中で、一番タフと言われていたではないか。
私はドロドロとした沼に立っている気分だった。
悪い夢を見ているのではないだろうか。
突然、点滴の機械がピーピーと鳴った。
看護士が現れて、点滴が無くなっているのを確認する。
「身体の向き、しんどくないかな」
K看護士は淳一の寝ている姿勢を気づかう。
点滴を替えながら、「よく眠ってはりますね」という。
張りつめた空気の中で、拍子抜けするような穏やかな口調だった。
今晩淳一の担当で、終夜付いてくれるという。
K看護士はこの高度救急救命センターいる間、頻繁に淳一の担当になり妻や娘はよく言葉を交わした。
小児病棟に移った後も、時折6階までお見舞いに来てくれた。
亡くなる前日、最後の面会者になったのもこのK看護士だった。
10分程すると、前日生検の説明をした外科のK医師が現れて、状況を説明するという。
私たちは高度救急救命センターの入り口近くの通路で、K医師から説明を受けた。
そこにもライトビュアーがあり、K医師はCT画像を目の前にしながら立ったままで話した。
通路なので、頻繁に医師や看護士たちが私たちの横を通る。
K医師の話はくどく、弁解めいていた。
<腫瘍が予想していた以上に大きくなっていて、生検の途中で気管を圧迫する事態が生じました。局部麻酔で行っていましたが、急遽気管挿入して全身麻酔に切り替えました。縦隔から組織は採取しました>
T医師が説明していたことを繰り返した。
麻酔のミスではないのだろうか。
私の頭によぎった。
30分程度の立ち話だったが、私はぐったり疲れていた。
K医師が立ち去ると、入れ替わりにT医師が現れて、奥の部屋へ案内した。
「人工呼吸器を付けた状態を見慣れていない人にはかなりショックを受けられると思います。ここでは日常茶飯事ですから」
T医師はうなだれている私たちを懸命に慰めようとしている。
「今は落ち着いていますので、任せていただいて大丈夫ですから」と促されて、私たちは家に帰ることになった。
時計は午後10時を回っていた。

翌日、私は重い気持ちを引きづりながら、仕事に向かう。
K電車へ立ち寄った後、営業担当を連れて八幡の松花堂を訪問する。
再三、妻から「先生が至急病院へ来て欲しい」との電話が入る。
仕事を早々に切り上げ、門真市からモノレールに乗り、阪大病院へ向かった。
秋晴れの透き通るような天気だった。
モノレールの車窓からは北摂の山並みがくっきりと見えていた。
天気とは裏腹に、病院で私を待っていたのは重たい問題だった。
カンファレンスルームに、担当医のT女医、オンコロジストのO医師、外科医のI医師、小児外科のK医師とN医師、それに担当の看護士と、今まで説明に立ち会ったメンバーすべてが揃っていた。
話すのは小児外科のK医師だ。
生検の経過を一通り説明した後、ひとつの不安を付け加えた。
「挿入したチューブは気管が腫瘍の重みでひしゃげているため、完全に奥まで入っていません。今は気道が確保されていますが、このままの状態で腫瘍が大きくなっていくと、チューブが入っていない部分で押しつぶされる可能性があります」
その為、もう一度挿入したチューブを奥まで入れる作業をしなければならないという。
静かな部屋に、早口で話すK医師の声が響く。
「かなり気管が閉塞していますので、チューブが奥まで入れられるかどうかという問題があります」
「それって、大丈夫なんですか」と亜由美が訊く。
「やってみないと、わかりません。もし、それが不可能ならば、ステントといって管の先が機械的に開く道具を挿入し、気管を広げる方法を採ります。チューブもゴム製なので、あまり圧迫がひどくなると、閉塞する心配はあります」
淳一が死ぬかもしれない。
漠然と覆っていた死の恐怖がはっきりと、私たちの目の前に現れた。
私は自分の顔がこわばっているのを感じた。
少し沈黙があって、0医師が話を引き継ぐ。
「とにかく、早急に2回目の化学治療を始めて、腫瘍を小さくする必要があります。1回目の治療はレントゲンで確認すると、少し腫瘍が小さくなっています。今回は病名が判りましたので、横紋筋肉腫に対する抗ガン剤を選択して投与します」
「あの状態で、抗ガン剤を投与するはあまりにも可哀想で…」と私は言葉に詰まる。
そんな感傷的な言葉は場違いな感じだった。
しおれたような沈黙があった。
私の前には最先端の医療にたずさわる5人の医師たちが座っている。
どの医師も厳しい受験戦争を乗り越えて国立大学の医学部に入学したエリートたちである。
医者の免許に受かり、大学病院でたくさんの患者を診てきた医師たちである。
しかし、私にとって、息子の難病の前ではうなだれている中年の伯父さんたちでしかなかった。
私はもどかしい気持ちで、黙っている医師たちに視線を向ける。
「患者さん自身は眠ったままの状態ですから、副作用の苦痛は感じられませんから」とT医師。
2回目の化学治療を了承し、その日の昼から抗ガン剤が投与された。

その後、ステントを使うこともなくチューブは奥まで挿入された。
高度救急救命センターの面会は午後1時から45分までの1回だけ。
面会出来るのが二人までなので、妻はずっと淳一のベッドのそばにいて、私と亜由美が交代で面会する。
6階のICU(集中治療室)へ移動するまでの1週間、私たちは高度救急救命センターに通った。
世の中では交通事故や傷害事件が頻繁に起きている。
それを反映している様に、センターには慌ただしくけが人が運ばれ、治療を受けている。
騒々しさとは無関係なように、淳一は静かに眠り続けている。
口からチューブを入れられ、手足を縛られて。
バスケットをしている夢でも見ているのだろうか。
苦しそうに見える時もあり、気持ちよさそうに見える時もある。
2回目の抗ガン剤投与が終わって数日後、髪の毛が抜け始めた。
淳一の坊主頭から、数え切れない程の短い髪の毛が抜け、枕の上のタオルに付着している。
妻は淳一の好きだった毛糸の帽子を、家から持ってきて被らせた。
淳一は帽子の似合う子供だった。
本人もいろんな帽子を好んで被った。
亡くなった今、家には被られることがない帽子がたくさん残されている。