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雀鬼6番勝負(10月凶日)

僕が麻雀を覚えたのは高校3年生の時だった。
受験勉強の真っ最中に、ギャンブルに熱中していたのだ。
大学生になってから麻雀を覚えるものが多かったから、初めは勝率も高かった。
大学時代の遊びはほとんど、麻雀だった。
ゼミを受講しようと学校に行くと、教室の前でメンバーが3人待っている。
授業をさぼって大学前の雀荘に入り、朝から夕方まで麻雀に興ずるのだ。
徹夜の麻雀をすることもあった。
あの時もう少し将来を見据えて語学なりを身につけていたなら、もっと違った人生があったのではないだろうか。
今思っても仕方がないことだが。
その頃一番よく麻雀をしていたメンバーがS君(荒くれ雀士)、Y君(ギャグ麻雀)、M君(イテマエ麻雀)である。
3人とも大阪方面から通っていたので、麻雀した後阪急電車に乗って帰った。
30年経った今でも、このメンバーとは年に2回は卓を囲んでいる。

大学時代、数限りなく繰り返した麻雀の中で、一つだけ覚えている手牌がある。
それは役満でもないし、素晴らしく綺麗な手牌ではない。
チョンボをした時のものである。
チョンボは張りつめた緊張の糸がダラリと緩んだ時に起きやすい。
それに未熟さからくる錯覚でも起こる。

上図は平和(ピンフ)、タンヤオに、が出れば三色同順になる。
一目見て、の待ちと思ってしまった。
三色同順が頭にこびりついていたからだ。

こうして並べ替えると、でも上がれることが判る。

が出たら良いのにと思っていた。
これでリーチをし、何巡目か後にこのをツモった。
リーチ、ツモ、タンヤオ、三色同順に裏ドラがのって、ハネ満だった。
が、S君が意義を申したてた。
「それ、これでも上がれるのやないか」と、自分の捨て牌のを指さしたのだ。
それは僕がリーチをした後、すぐにS君が捨てたものだった。
上がり牌の見逃しで、チョンボだった。
ハネ満の12000点をいただくところが、チョンボ代の8000点を払う羽目になった。
差し引き20000点の打撃を食らったのである。
印刷の仕事で1200000円儲けるつもりが、校正ミスの刷り直しで800000円損をするのに似ている。
ちょっとしたことで錯覚が生じ、痛い目に遭うのは仕事でも同じである。
チョンボした記憶はこれだけである。
それだけに鮮明に覚えている。
そう言えば、Y君がよくチョンボをしていたのを思い出す。
確か、を捨てて、の単騎待ちにしたことがあった。
これも頻繁に口から出るギャグのひとつのようだった。

半年ぶりにこのメンバーと卓を囲んだ。
−82に×が4つ、散々な結果に終わった。

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