阪急・武庫之荘駅のホームにひときわ大きな声が聞こえてくる。
それは歌声であったりする。
近づいてみると、外からホームの通勤客に向かって、外人が話したり歌ったりしているのだ。
宣教師のようである。
「私は神であり、真理である。私以外は神でなく、真理でない」
そのようなことを言っていた。
その外人は必ず木曜日の朝にやってくる。
ボクは木曜日の朝、声が聞こえるホームに立つようにしている。
ボクはこれっといった宗教を特に信仰している訳ではないし、過去に宗教に関係したこともない。
でも、宗教に深く関わってみたいという願望はある。
というのも、そういうものにのめりこむと、意馬心猿とした気持ちがスゥッと消えて、鬱々とした毎日がバラ色になるのではないかと思うからだ。
それは白い粉と注射器を求めるのと同じ気持ちである。
つい先日、エホバの証人と名乗るオバサンが小さな子供を連れて玄関に現れた。
「神がどうとかこうとか」「今の世の中は乱れていると思いませんか」など、熱心におしゃべりした後、小冊子を置いていかれた。
日曜日の朝に子供まで連れていたので、その熱心さはどこから来るのかと妙に感心してしまったのだ。
あやかりたいと思ったものだ。
白い粉を溶かして注射するように小冊子を読んではみたのだが、どうもその熱心さは私の体内に入ってこなかった。
「キリストは霊において臨在する」「キリストのもとに置かれる王国が義と平和をもって地を支配する」なんて言葉にシンパシーを感じないのだ。
宗教が持っている独善やお節介がプーンと鼻につくて、全く喉を通らない。
恐らく、ボクが宗教へ憧憬の念をいだくのはちょっとした精神的エクスタシーを感じてみたいだけの、ふとどきな気持ちからなのだ。
写経は経文を書き写すことのよって、仏の心に通じ、心身が癒され大願が速やかに成就するというもので、ボクは以前から興味があった。
精神的なエクスタシーを手に入れながら願っていることが叶うのであれば、こんなステキなことはない。
先日、読者に写経を体験させるという情報誌の仕事があった。
それに立ち会ったボクは読者の女の子の横に座って、写経を体験させてもらった。
場所は京都の泉涌寺隣りにある雲龍院である。
ここでの写経は予め薄く印刷してある経文の上を、朱墨でなぞっていくものだ。
本堂は凛とした空気に包まれ、薄暗い堂内にはくたびれた香華がぼんやりと浮かんでいる。ボクは少しの正坐も我慢出来ず、あぐらの状態で筆をすすめた。
般若心経の経文をすべて書き終えると、最後に空欄がある。
そこに願い事を書いて、それを奉納するのである。
いざ、願い事を書けと言われると、ハタと筆が止まってしまった。
願い事が多すぎるからだ。
仏様もいくつも願いを聞いてくれないだろうし、不謹慎な願い事も書けない。
となりの子の願い事を横目でチラッと見ると、「みんな」「幸せ」の文字が見える。
ボクは「健康」「家内安全」と、心の表面に浮かんだありきたりの文字を書いた。
そして、仏殿の前で奉納したのだが、手を合わせながらボクは心の中で不謹慎な事をお願いしてしまった。
それは教えてあげない。
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