その10

「会社、辞めようかな」
私は妻に言った。
妻はあっさり、「いいよ、辞めても」と応えた。
半分は本心だった。
後の半分は甘えだった。
淳一は高度救急救命センターで眠り続けている。
昼の45分間だけの面会時間に、妻と亜由美は毎日出かけ、反応がない淳一に寄り添った。
私は会社を休むわけには行かず、妻から様子を聞くだけである。
何が出来る訳でもないが、無性にもどかしい。
息子の残された時間は余り無いのではないか。
そんな心配をしながら、会社で仕事をすることが空々しかった。
こんなことをしていていいのだろうかという気持ちだった。
家庭がどんな状況であろうとも、会社は売り上げを上げるために、淡々と経済活動を続けている。
会社に行く以上、平然と仕事をしなければならない。
私が家庭においてどんな境遇であろうと、管理者としてどんなに資質のない人間であろうと、とにかく営業所の責任者の立場にいる。
所員はたった10人程度だが、みんな私を責任者として頼っているはず。
そのギャップが私を精神的に疲れさせた。
「会社、辞めようかな」という言葉はそんな状況で、ふと口からこぼれた。
ある程度の蓄えはあった。
50歳以上の就職が困難なことは判っていたが、選ばなければ何か仕事にありつけるだろう、と考えたりする。
しかし、そんな考えは全く甘いことと、1枚の紙切れが教えてくれた。
阪大の10月の請求書は70万円を超えていた。
健康保険には高額療養費という制度がある。
重い病気などで病院等に長期入院したり、治療が長引いたりして、医療費の自己負担額が高額になった場合、家計の負担を軽減できるようになっていて、自己負担限度額を超えた部分が払い戻される。
会社で申請をすれば、20万程度は戻ってきた。
そうであっても、月50万の負担は大きい。
10月は検査が多かったとはいえ、これからの化学治療や放射線治療などを考えると、支払う金額に恐ろしくなった。
ちなみに、11月の医療費は7けたを超えていた。
その頃、病院の掲示板で、<小児慢性特定疾患医療>という制度があるのを知った。
小児慢性特定疾患医療とは悪性新生物・糖尿病・内分泌疾患・ 血友病などの治療を受けている、18歳未満の子供(継続している場合は20歳未満)を対象に、医療費を公費で負担してくれる制度である。
悪性新生物というのが悪性腫瘍を指し、ほとんど全額を国や自治体が負担してくれる。
医師の意見書を付けて管轄の保健所へ申請すると、以後の治療費は無料になった。
しかし、一旦払ってしまった治療費は戻ってこない。
もっと早く知っていたら負担せずに済んだのだが、こういった制度は誰も丁寧に教えてくれない。
自分で知識を集めておかないと、損をすることになる。
息子の病気を知った当初、気持ちが揺れていて、経済的なことまで頭が回らなかった。
医療費の請求書を受け取り、その数字を見て、現実がどすんと目の前に立ちはだかる。
気持ちが動転しているときは漠然と、息子が助かるためにはどんなことでもしようと思う。
どんな経済的な負担でも支えていこうと決意する。
しかし、突きつけられる数字が想像を超えると、現実はなおさら厳しく感じられる。
抗ガン剤の効果で息子の腫瘍が小さくなり、手術をし腫瘍を取り去ることが出来たとしても、退院後に車椅子の生活を強いられるようになるかもしれない。
学校に通えるようになったとしても、健常者と同じ生活が出来るとは限らない。
そこには様々な経済的な負担が出てくるに違いない。
希望を持つということは希望を現実にするための経済的な基盤も考えなければならない。
「会社を辞めよう」なんて言うのは、全く甘い考えだった。
会社というのは経済的にやはり大きな存在だ。
給料だけでなく、健康保険や労災保険などの制度で社員を支えくれる。
健康保険料は会社が半額負担しているし、労災保険は全額負担している。
会社で粛々と仕事をし地位を守り、それに対して給料を戴く。
この単純にして困難なことをやり抜くことが、息子の闘病を支える父親の役割だった。
病院から届いた請求書が私にそれを自覚させた。

会社のことについて、少し話そう。
私の会社はK電鉄の子会社で、広告代理業を生業にしている。
K電車の車内広告、駅看板広告などの交通広告、それにK電鉄やグループの広告を扱うことが主な収入源である。
以前はK交通社という旅行会社の一部門だった。
広告代理店部というのは非常に収益性の高い部署で、常に黒字を産みだし、会社の利益に大きな役割を演じていた。
しかし、バブル経済の崩壊とともに、旅行業界は下り坂を転がり始める。
K交通社の売り上げも降下し、それに経営の失敗が重なり、債務超過に陥ってしまった。
7年前の出来事である。、
そこで、一旦社員全員を解雇し、親会社の支援を受け新しい会社を設立し、再び社員を雇用するという方法で、その危機を乗り越えようとした。
その再建方法が目新しかったので、朝日新聞や読売新聞などの経済面に、我が社の名前が大きな活字で出ていた。
私は退職金を貰い、賃金がカットされて、新会社の社員になった。
その際、K交通社から独立し、広告事業部はKエージェンシーとして、一つの会社になる。
しかし、独立した会社になったとはいえ、実体はK交通社の運営子会社の形をとり、低迷を続ける旅行会社に売り上げの大部分を吸い取られるという、以前と全く変わらない状態が続いた。
それから数年後、再びK交通社に債務超過の危機が訪れた。
他の電鉄系の旅行会社も軒並み業績を落として、どこもリストラや企業再編を繰り返していた。
親会社の指導の下で、再び再編が行われた。
我が社はK交通社から離れ、新しい会社に生まれ変わった。
もうK交通社から拘束されることもなく、売り上げを吸い上げられることもなくなった。
平成14年12月、Kエージェンシーは新会社になり、新しい社長が親会社からやってきた。
同時に、私は30年近く働いていた大阪を離れて、京都営業所に異動になった。
異動と告げられた時は一瞬沈黙するほど驚いたものだ。
その頃、私は印刷事業課という部署の責任者をしていた。
責任者といっても、部下がひとりいるだけ。
この印刷事業課は以前電鉄からやってきた社長の思いつきで始まった。
「なんで、もっと印刷物の仕事を取らないのか」と歓迎会の席上で発した言葉が半年後に一つの課として形になった。
しかし、印刷業界は専業者たちが激しい価格競争が繰り広げられており、印刷機械の持たない代理店が入り込む余地は無かった。
親会社のK電鉄にも、すでに多くの印刷業者が入っていた。
それまで長く営業をしていた私に、印刷事業の責任者として白羽の矢が当たった。
営業時代、印刷物の仕事を多くしていたためだ。
印刷専門の課を作ったからといって、印刷の仕事が増えるほど、世の中は甘くない。
印刷の売り上げは低迷したままだった。
その頃、K電鉄から沿線情報誌の拡大版を出す計画が入ってきた。
今までポケット版で各駅に置いていた情報誌をタブロイド版に変更することだった。
競合路線を走るH電鉄はすでにタブロイド版の情報誌を月2回発行している。
何度も電鉄の宣伝へ企画案を提出し、プレゼンを繰り返して1年後その情報誌は発行された。
それ以降、私の仕事は情報誌の編集が主になった。
低迷する印刷の仕事から目をそらすようにして、私は編集の仕事に傾斜していった。
編集の仕事は苦労も多かったが、結構充実していた。
その頃、私は<惑わず>の40代から、<天命を知る>の50代になった。
年を重ねると、徐々に漠然とした不安が頭をもたげてくる。
ひとつは誰もが気に掛かる老化に対するものだ。
近くのものが見えなくなり、歯は悪くなり、記憶力が極端に落ちてくる。
体力の衰えも感じる。
この頃、同居していた母親がアルツハイマーを患い、運動能力が日増しに落ちていった。
今はほとんど寝たきりの状態である。
元気で生き生き働いていた母親が段々と介護を必要としてきたのを見るに付け、老化の恐ろしさを感じるのである。
もう一つの不安は年相応の責任に対するものである。
神戸の大震災で家を建て替える体験はしているものの、家庭にしろ、仕事にしろ、比較的順風満帆に過ごしてきた。
会社では、営業時代にある程度の成績を維持することが出来ていたし、印刷の担当に変わっても編集の仕事を得て、それなりに充実した日々を送っていた。
30代後半に管理職になっていたのだが、私は部下に対してあまり面倒見が良い上司とは言えず、自分のテリトリーの中でマイペースに仕事をしていくタイプだった。
家庭でも同じだ。
子供の教育やしつけに口を挟む訳でもなく、少し距離を置いて、父親の役割を務めていた。
会社でも家庭でも、それなりに満足していた。
しかし、将来がこのまま順調に流れていくとは思えなかった。
様々な形で責任が覆い被さってくるだろう。
生きていく上で避けて通ることが出来ない難題が降りかかってくるのではないか。
予感めいたものがあった。
これは50歳と迎えたものが一様にs感じることなのかも知れない。

五木寛之の人気小説に「青春の門」というのがある。
もう30年以上も前のことだが、映画化された。
九州の筑豊に生まれた主人公が大人に成長していく青春ドラマである。
父親役は確か、 北大路欣也だった。
みんなから信頼される堂々とした父親として描かれていた。
ある日、筑豊の炭坑で落盤事故が起き、坑内にたくさんの仲間が残された。
北大路欣也扮する人物はみんなから引き留められるのを振り切って、仲間を救い出すため炭坑の中へ入っていく場面があった。
いよいよ炭鉱内に入ろうとするその時、父親は「プッ」とオナラをする。

「愛嬌たい」
苦笑いを浮かべて言う。
どんな苦境に立たされても、茶目っ気を忘れず、堂々としていたい。
男であり、父親である以上、大きな度量を持って問題に対処していこう。
この映画を見た時、そんな風に思ったものである。
しかし、現実はうまくいかない。
一つの営業所の責任者になり、息子の難病という現実を前にしたとき、私はけっして堂々と難題に立ち向かうことなど出来なかった。
電車の中でひとり涙を流したり、うろたえたり。
自分の弱さというものを痛いほどに、思い知らされたのだ。