その15

12月5日日曜日、昨夜の大荒れの天気が嘘のように、からりと晴れていた。
病院へ出かける朝、告知のことで議論になった。
亜由美は病名を隠して闘病させることに強く反対する。
これから、化学治療や放射線治療などが厳しい治療が続く。
ごまかし続けることは出来ないだろうし、真実を告げて闘病させる方が淳一のために良いと主張する。
「だましだましして、淳一に我慢させるのは可哀想。そんなんで、おとうさんもおかあさんも本当に納得できる」と声を荒げる。
ICU症候群からうつ状態にある弟の病状に苛立っている様子だった。
告知に関して、亜由美はT担当医と同じ考えだった。
「小児科ではほとんど子供たちに告知しています。最初は少し落ち込みますが、みんな病気に立ち向かう姿勢になります」
私は告知には絶対反対だった。
妻も同じ意見だった。
幼い頃から恐がりで気の小さい淳一はかなり落ち込むだろう。
自暴自棄になりふてくされて、泣きわめくかもしれない。
とても耐えられないと思った。
出来ればがんを知らないまま、治ることを信じて病気と闘わせたい。
そんな考えは亜由美にとって逃げ腰に感じられたのだろう。
しかし、現実と向き合わない卑怯な態度だと言われても、こればっかりは譲れない気持ちだった。

義母を加えて、4人で病院へ向かった。
走り慣れた171号線を抜け、中央縦貫を走る。
万博公園の周回道路に入ると、病院が見えてくる。
歩道をジョギングをしている人が目に入ってくる。
面会時間は1時間だけ。
それに面会出来るのはふたりまでだったので、私と亜由美が先に集中治療室に入った。
いつもはぼんやりと天井を見つめているのに、その日の淳一は違っていた。
ベッドの上で四つん這いになり、しゃくり上げるように泣いている。
看護士が淳一の背中をさすっていた。
「僕は金川淳一ではありません」
そう言って、泣いている。
「どうしたん」
亜由美が近づき、看護士に代わって淳一の背中をさする。
「お姉ちゃんもお父さんもここにいるから」
顔を真っ赤にし、涙でいっぱいだ。
「僕は金川淳一ではありません」としゃくりあげる。
髪の毛が抜け、頭はダチョウのようになっている。
飛び跳ねるようにバスケットボールを追いかけていた面影はない。
「亜由美、お母さんと交代してくる」
私はそう言って、病室を出た。
居たたまれない気持ちだった。
デイルームの窓際に義母と妻が座っている。
「淳一の様子がおかしい。行ってやってくれ」
妻は慌てて病室へ向かった。
私は義母の前に座って、初冬の透き通った景色をぼんやりと見た。
「何があったの?」
義母が聞くが、言葉が出ない。
「僕は金川淳一ではありません」
<金川淳一であること>、それがこんなにも苦しい境遇に陥れている。
自分自身から逃れたいと思っているのだろうか。
突然、抑えきれない感情が胸いっぱいにせり上がってくる。
いっぱいになったコップから水がこぼれ落ちるように、その感情が噴きこぼれた。
どうしたんだろう。
私はまるで子供のように泣いていた。
人目をはばからず、声を出して。
読んでいる方は「あんた、よく泣きはるなぁ」と思われるかも知れない。
私自身、こんなに泣き虫だとは思わなかった。
人は泣くことによって、感情の調節をする。
泣くことによって、張りつめていた感情の糸を緩めていた。
この頃、私は営業所を引っ張る者として虚勢を張り、息子の病気を前にして父親として夫として「しっかりしなければ」と、いっぱいの背伸びをしていた。
それが一気にへなへなと崩れ落ちた。
もし、私が泣くことが知らなかったら、精神的におかしくなっていたかもしれない。
この時から、看護士さんや同室だった子供のお母さんたちに「泣き虫父さん」なんて言われるようになった。
「何があったの?」
義母が何度も心配そうに聞くが、私は窓の外に向かって泣き続けた。
ガラス窓の向こうにはいつもの万博公園の緑が広がり、そのはるかむこうに梅田のビル群がかすかに見えた。
ジングルベルが鳴り、年末商戦でにぎわっているだろう街の風景を思い浮かべた。
もし、裏側に別の人生があるとしたら、淳一はその街で友達とたむろしているかもしれない。

30分程して、亜由美がデイルームに現れた。
「個室に移ったから。行ってやって」
集中治療室に近い個室は8畳ほどの広さだった。
付き添いが寝泊まりするには十分の広さだ。
「泣き虫淳君は落ち着いたみたいですね」
T医師が看護士と点滴の管を整えながら微笑んだ。
淳一は気持ちが落ち着いたのか、静かに天井を見ていた。
視線は不安定だった。
氷を口に含んでやると、ホッとした表情を見せた。
やはり、家族がそばにいると安心しているようだ。
この日から、「淳一をひとりにさせない」と亜由美と妻が交代で泊まり始めた。
泊まりの初日、淳一はほとんど眠らなかったらしく、泊まっていた妻は疲れ切った様子だった。
昼間は交代し、妻を家で眠らせる。
その翌日も夜はほとんど眠らなかった。
3週間も高度救急救命センターで眠っていたことを説明すると、「どうして、行かせてくれなかったのか」と意味深なことを言う。
そして、「お祖母ちゃんやお父さんやお母さんがベッドのそばで僕を看病していた。それを僕は天井から見ていた」と臨死体験めいた話を語った。
精神的にかなりダメージを受けているようだった。
その頃、京都駅前にある商業施設のクリスマスセールを、当社が運営していた。
テレビでは子供マジシャンの山上兄弟やカードマジックの前田知洋が登場し、マジックブームになっていた。
マジックをテーマに抽選会を盛り上げるように企画し、当社の案が採用された。
抽選会場の横ではマジックグッズの販売もしていた。
そこで、いくつかのマジックを買って、病院に持っていった。
キーホルダーに500円を入れナイフで突き刺すと、ナイフが500円を貫通するマジックを、淳一の前で披露してやった。
久しぶりに微笑む顔を見た。
気を紛らわせ、何とか沈んだ気持ちを和ませてやりたかった。
クリスマスプレゼントにノート型パソコンを買ってやったり、PSP(プレイステーションポータブル)を買い与えたりした。
ひとりになるのを極端に恐れるものの、徐々に平静を取り戻しつつあった。
しかし、身体の状態は最悪だった。
抗がん剤の影響で、腸に粘膜傷害が起き、激しい下痢になった。
やせ細った身体に大きなおしめをしていたのだが、頻繁におしめを汚した。
そのたびに看護士さんと変える作業をするのだが、思春期の若者にとって、家族であれ人前で下半身をさらすのはつらかったのだろう。
時折情けなさで涙する場面もあった。
3回目の抗がん剤治療が個室に移って間もなく始まっていた。
ハイカムチンを3日間投与した。
この薬は淳一の横紋筋肉腫にかなり効果があり、画像診断でも腫瘍の縮小が確認されていた。
同時に副作用もひどかった。
白血球は120にまで落ち、40度近くの熱が続いた。
この頃の淳一は緑膿菌に感染していた。
緑膿菌は人間の体内をはじめ、水回りによく見られる菌で、水道の中でも殺菌剤が入っていないと増殖する。
健康な人では菌が入っても、病状として現れない。
しかし、免疫が落ちているものに対して菌は力を持つ。
白血球が落ちている淳一は緑膿菌の標的になり、激しい下痢と発熱に悩まされた。
院内では殺菌に細心の注意を払っていた。
集中治療室の面会の際、うがいと手洗いは必ずしていたし、どの病室の前には殺菌消毒剤が備えてある。
病院では徹底して院内感染に注意を払っていた。
後のことだが、私は横着して殺菌消毒剤を使わないで個室に入っているところを婦長に見つかって、とがめられたことがあった。
それだけ注意を払っていても、どこかで感染したのだろう。
12月10日、ナースステーションに最も近い個室に移った。
低菌が維持出来る部屋で、トイレまで付いていた。
天井に付いている小型カメラで、ナースステーションから部屋の状態を監視出来るようにもなっている。
窓の外にはとなりのビルが大きく立ちはだかり、風景をさえぎっている。
それでも左手には千里中央のビルが見え、その向こうに六甲の山並みを望むことが出来た。
「家、見える?」
ふたりだけになった時、淳一は少し頭を起こしながら言った。
「いや。六甲山は少し見えるけどな」
私は初冬の澄んだ遠景を見つめた。
「家に帰りたいか」
淳一は小さくうなづいた。
窓の方に視線を移す姿を見て、可哀想なことを訊いたなと後悔した。
妻がT医師に「いつごろ、外泊できるでしょうか」と訊くと、「今はそれどころではない」と一蹴されてしまう。
後にT医師が言っていたのだが、その頃の淳一の状態は命に関わるほどに危険な状態だったらしい。
右目がひどく充血し、しきりに足の痛みを訴え始めた。
がんが足にまで転移したのかと心配したが、「長く寝かされていた状態だったので、筋肉痛になっている」とT医師は応える。
かなり痛いらしく、何度も痛み止めを打った。
決まった時間に尿や便、体温などを紙に書き入れて、看護士に報告する。
その頃、水分が1日500mlに制限をされていて、与えた水分の量も紙に書かなければならなかった。
のどが渇くのか、頻繁に水が飲みたいという。
泣きながら「水が飲みたい」と訴えたこともあった。
氷を含ませることに制限が無かったので、しきりに氷を口に入れてやった。
しかし氷では物足りなかったようだ。
妻と亜由美はきっちりと水分の量を守っていて、淳一が水を要求しても我慢させていた。
ふたりが買い物に行ってふたりだけになった時、「お父さん、冷蔵庫のポカリ、飲ませて」と淳一は潤んだ目を向けた。
「500ml、超えてるぞ」というと、「ええやんか。お願い」と拝むように言う。
私は冷蔵庫から冷えたスポーツ飲料を取り出して、ストローを口に入れてやった。
「見つからんように、早く飲め」というと、ゴクゴクとのどを鳴らして飲んでいた。
飲み終わった後、満足そうにふっと息をもらした。
その満ち足りた笑顔を見て、私はほろ苦い満足感に包まれた。

その頃、バスケットの監督、コーチ、友人のk君の訪問があった。
続いて中学の担任M先生と副担任が学校を終えた夜、見舞いに訪れた。
どの表情も、変わり果てた淳一の姿を見て、かなり動揺していた。
淳一の前では気丈に振る舞っていたが、病室を出ると、みんな一様に涙を浮かべていた。
淳一の顔色はどす黒く、やせ衰え、髪の毛はほどんど抜け落ちていた。
9月の体育祭に出てから、3ヶ月近く学校を休んだことになる。
高校受験を前に、みんな勉強している頃だ。
教室へ戻るのは無理としても、卒業式には出してやりたかった。

会社で年末の慌ただしさの中にあった。
廃業した代理店の債務処理、看護学校の集金トラブル、イベントの人員手配など、処理しなければならない問題が次々と降りかかってくる。
売り上げの下降は止まらず、このままでは予算に対して70%を下回りそうだった。
会社でもどん底をさまよっていた。