その16

京阪電車の出町柳駅で降り、東へ向かって歩いた。
ところどころに新しい店が出来ている。
大学へ通っていた頃と雰囲気はほとんど変わっていない。
叡山電車を利用するのに、この道を良く通ったものだ。
もう30年以上前のことだ。
京阪電車が三条から出町柳まで延伸して、この辺りは人通りが増え賑やかになった。
百万遍の交差点まで来ると、学生らしき人が急に増える。
さらに東へ向かうと知恩寺があり、昔よく利用した学生食堂や古本屋が並んでいる。
コンビニの角を左に曲がると、閑静な住宅街だ。
叔母の家はその一角にある。
以前は学生に間借りさせていたが、今学生の姿はない。
私も大学時代、1年間ここで下宿していた。
京都に転勤になってから、何度かここを訪ねた。
私の母親は7人兄弟で2番目の次女、叔母は長女だった。
母親は現在、岐阜に嫁いだ姉の家で寝たきりの状態であり、親戚との接点は叔母だった。
下宿していたこともあり、親戚の中では一番身近な存在だった。
ちょうど、淳一の病気が発覚する1週間前に、私は叔母と一緒に岐阜の母親を訪ねている。
淳一の病気は叔母に知らせ、叔母を通じて親戚が知ることになった。
数日前、「渡したいものがあるから、ちょっと寄って」と電話があり、昼休みを利用して立ち寄った。
叔母は猫と一緒に、昼食を用意して待っていてくれた。
叔父さんは10年前に鬼籍に入り娘夫婦と暮らしているが、娘夫婦はどちらも働いており、昼間はほとんどひとりで過ごしている。
「渡したいもの」とは「サルノコシカケ」だった。
「庭の木に付いているんや」と円盤を割ったようなそれを見せる。
サルノコシカケは昔から抗がん作用があるといわれる。
免疫作用があるらしく、直接病気をやっつけるというより、身体の免疫力を高めて、病気にかかりにくくしたり病気が進行していくのを抑えるという。
糖尿病や高血圧にも効き目があるらしい。
「砕いてから、お茶のように煎じて飲むだけやから」と叔母はあらかじめ砕いていたものを急須にいれ、湯飲み茶碗に注いでくれる。
味はなかった。
これで効果があるのだろうか。
急激に進歩している化学治療と違い、こういった薬は長い歴史の経験によって成り立っている。
中国の漢方薬と同様だ。
自然から紡ぎ出される生物を乾燥させたり、組み合わせて煎じたり、何千年掛けて効き目を探ってきたものだ。
その中にはたくさんの人を犠牲にしたものもある。
失明までして、夫の麻酔薬の試験に協力した華岡清州の妻もそのひとりだ。
いろんな病に対して、試しては失敗し、また試みて失敗しを繰り返し、<恐らくこの病には効き目があるだろう>という結論を導き出す。
それに対して化学薬品は科学的な根拠を基に組み合わされて、開発される。
そもそも、化学合成薬品の西洋医学と漢方薬の東洋医学では人間や病気に対する考え方が違う。
西洋医学では人間の身体を部品(臓器)の集合した精密機械と捉え、病気はその部品が故障したと考える。
病変が直接発見されるか、検査データなどで異常が示されてから、病気と判断しそれを元の状態に戻すことを目的にしている。
それに対して、東洋医学では人間を自然界に存在する小さな宇宙として捉え、病気は臓器や組織の体内バランスが崩れ、自然の治癒力や免疫力が減退した状態と考える。
即効性よりも緩やかに効果を求め、病気は自然の流れの一部と考え、共存しながら健康になっていくことを目的にする。
漢方薬には副作用がない。
それが化学薬品との大きな違いだろう。
しかし、漢方薬にはインチキなものも多いようだ。
きのこの免疫性が話題になると、どんなきのこにもがんを抑える作用があるがごとく社会に広まってくる。
がんに効果があると話題になっていたアガリクスも、一部の製品は発ガンを促進すると、食品衛生委員会から指摘を受けている。
私はがんという病に対して、化学薬品であれ漢方薬であれ、どちらの効果も否定しない。
何故なら、がんは発症の原因がはっきりとわかっていないし、かなり個人差がある病気である。
漢方薬が効く人もいれば、全く効果がない人もいる。
また同様に、化学治療が効く人もいれば、効かない人もいる。
「○○○でがんが消えた」とか「○○○を使って、末期がんから生還」とか、薬の広告でよく見かける。
眉唾物がほとんどだと思うが、すべてを否定出来ない。
ほんの数パーセントでも、効く人もいるはず。
サルノコシカケの他にも、友人や知人から話題の薬をいただいた。
メシマコブ、そしてマイタケDフラクションだ。
どちらもキノコから加工した薬であり、制ガン作用、抗腫瘍効果があるといわれている。
高価なものである。
「あのぉ、漢方薬を飲ませても良いでしょうか」
カウンセリングが終わった時、妻は遠慮気味にT医師に訊いた。
少し考えてから、「それも選択肢のひとつかもしれません。でも、今は化学治療をしているときですし、かなりの効果が認められていますから。それが効かなくなってから、試されるてはどうでしょうか」と応えた。
予想していた返答だった。
T医師は西洋医学の最先端にいる立場だった。
西洋医学の立場に立つ医師に対して、漢方薬の有無を訊くのもどうかと思う。
共産主義者に「神に祈りましょう」と神の存在を説くようなものだった。
だが、副作用に苦しむ息子を見ていて、副作用のない漢方薬を試してみたいと考えるのも当然だろう。
ひょっとしたら、と考えるのだ。
最期まで漢方薬を試す機会が無かったことが、今でも心残りだ。

この頃、突然の雨に傘を差し掛けてくれた人がたくさんいた。
話題の薬をいただいたり、手紙を頂いたり、様々な人から励まされた。
私は「金ブン通信」というホームページを作って、定期的に更新していた。
日々の出来事を気ままに文章にしていた。
それを結構読んで頂いていて、見知らぬ人から「面白い」という感想をメールで送られてくることがあった。
いい気になって、かなり過激なことも書いていた。
淳一の病気が判ってから更新しないでいると、「どうしたのか」とのメールを頂いたりする。
わざわざ自筆の手紙を貰って、思わず涙がこぼれたこともあった。
それぞれの言葉で、私は励まされた。
みんな一様に、気を使っていることがうかがえた。
がんを患った息子を抱えた親に、どんな言葉を掛けたら良いのか、戸惑ったに違いない。
反対の立場なら、私も戸惑うに違いない。
事情を知り、励まそうと私のところに来るのだが、その事に全く触れないでいる人もいた。
それも温かかった。

12月21日昼から運営している歳末のイベントを見て回った後、午後9時に病院に着いた。
ベッドの横に大きなドナルドダックのぬいぐるみが置いてあった。
昼、小児科の教授がサンタクロースの格好をして、病室に現れたという。
突然の訪問に淳一もびっくりしていたと妻が伝える。
妻が驚いていたのは教授自らがサンタクロースの着ぐるみを被って登場したことだった。
小児科外科の中で高学年の淳一はただ驚いている様子だったが、小さな子供たちはその意外な訪問に喜んでいた。
その翌日T医師がCTの結果を説明するというので、再び午後9時病院に着く。
画像を前に、「腫瘍は大分小さくなっています」と説明する。
白血球は2万2千まで増え、LDH(腫瘍マーカー)は500と若干増加している。
感染症を示すCRPはやや高めだった。
「今回の抗がん剤、ハイカムチンがかなり効き目があったので、早めに化学治療に入りたい」と次の月曜日の12月27日を指定した。
ハイカムチンを7日間、それにタキソールを1日投与する。
お正月は治療の真っ最中だ。
次の治療までに一度家に帰らせたいと考えていた妻も私も、無口になった。
どっと、疲れが肩に掛かった。
「この調子で腫瘍が小さくなれば、手術で取り除く可能性が出てきます」
T医師は黙っている聞いている私たちに構わず続けた。
「放射線治療をして、最終的に大量化学投与をし、がんを徹底的にやっつけます」
大量化学投与とは10倍の量の抗がん剤を投与し、一気にガン細胞を死滅させるというものだ。
患者への負担は想像を絶するものである。
副作用で死ぬ場合もある。
しかし、この小児科に入院している、がんを患っている子供たちは可能な限りこれを経験するという。
幼い赤ちゃんでもだ。
「それから、告知のことですが」
T医師は最後に付け加えた。
「これからの治療のことを考えたら、淳一君に自身の病気の状態を知ってもらって、闘病させるほうが良いと思います」
阪大の小児科ではほとんど告知していると、改めて説明する。
「ご家族がご一緒の時に、行いたいのですが」
24日金曜日、クリスマスイブに決まった。
夜よりも昼間のほうが良いという。
昼の明るさが沈む気持ちを少しでも和らげるのだ。
午後2時に集まることになった。

12月24日午前中、葬儀に参列するため岸和田まで出かけた。
急いで焼香を済ませてから、病院へ向かった。
午後2時に遅れそうだった。
途中何度も、携帯に電話が入った。
「みんな、お父さんの来るのを待っている」と亜由美が伝えた。
モノレールの門真駅まで亜由美が車で迎えに来てくれたが、渋滞に巻き込まれてしまう。
病院に着くと、担当医のT医師や婦長、看護師たちが私が来るのを待っていた。
病室では淳一がしきりに足の痛みを訴えている。
説明はカンファレンスルームで行われるが、とてもそこまで移動が出来る状態ではなかった。
痛み止めの注射を打ち、リクライニングが可能な車椅子が用意される。
やっとの思いで車椅子に乗り、カンファレンスルームへ向かった。
無理に知らせる必要があるのだろうか。
もう止めてやってくれ。
付き添う私は尻込みしたい気持ちだった。
カンファレンスルームには冬の太陽が眩しいほどに差し込んでいた。
大きな車椅子が入ると、狭い部屋は一層狭くなった。
車椅子の周りを、T医師、婦長、看護師が二人、それに私たち3人が
囲むように立った。
「痛い、痛い」
淳一はまだ、足の痛みを訴えていた。
「痛み止めが効いてくるからね。ちょっとの間、我慢してね」
小柄な婦長が声を掛ける。
シャーカッセン(画像フィルムを見る蛍光板)に淳一の胸部画像が張り付けられている。
以前撮影した画像と最近撮影したCT画像である。
この3ヶ月間、何度画像を見せられただろうか。
「淳一君、これは君の胸の写真です。色が変わっているところがあるでしょ」
T医師が画像を指さしながら、話す。
「ここにデキモノがあるの。これをやっつけるために、今まで薬をいれて苦しい治療をしているのよ」
淳一は足の痛みで顔をしかめながらも、じっと画像を見つめていた。
「淳一君の病気の名前は横紋筋肉腫と言います」
「おうもんきんにくしゅ…」
淳一は小声で繰り返した。
「そう。非常に珍しい病気です」
薬でデキモノを小さくして、手術で取り除ける状態になったら手術することになること。
もう少し薬の治療を続けなければならないこと。
入院が長引くこと。
T医師は幼児に聞かせるようにゆっくりと話した。
淳一は痛み止めが効いてきた様子で、落ち着いてきた。
「治るのですか」と質問する。
「大丈夫。頑張って治療したら、またバスケット出来るようになるからね」
「いつ頃まで掛かるのですか」
淳一が小声で言う。
「さあ、はっきり言えないけど、半年か、一年かな。少し長く掛かるかも知れない」
中学の卒業までには退院出来ると思っていた淳一の表情が曇った。
「でも、頑張って治療したら、早く退院して家に帰れると思うよ」
婦長が横から元気付けた。
説明は20分程で終わった。
告知という重たいものを想像していた私は安堵した。
重い病気であることは判ったようだが、死に至る重大な病気と認識した様子は無かった。
私が終始恐れていたのは淳一が「がんなんですか」と訊ねることだった。
がんという言葉は一切使われなかったし、淳一も「がん」を意識した様子はない。
がんはデキモノと表現され、淳一はデキモノと理解したのだろう。
もし、淳一が「がんなんですか」という訊いたら、T医師はどう応えていたのだろう。
亡くなるまで、その質問は淳一の口から出なかった。
25年前にがんで亡くなった義父も同様だった。
そして、義父と同じように気づいていたのだろうと、一年経った今思い返す。

同室だった子は白血病。
小学校低学年で発症し、何度も入退院を繰り返した。
弟がいた。
弟に「サンタさんのプレゼントは何が欲しい」と母親が訊く。
すぐさま、「お兄ちゃんが元気になる薬を、サンタさんにお願いする」と応えたという。

漆黒の夜空に、花火が上がった。
エキスポランドはクリスマスに夜の延長営業をしている。
阪大に向かうモノレールからエキスポランドのにぎわいが見えた。
観覧車はイルミネーションの中をゆっくり周り、ジェットコースターが急速度で落下する。
歓声が想像出来た。
病院の子供たちはデイルームを暗くして、遊園地の空から上がる花火を眺めていた。
花火は夜空を一瞬の間明るくし、すぐに消える。
そして、何事も無かったようにまた真っ暗な夜空に戻った。

12月28日、スマトラ沖で大きな地震があった。
テレビは津波の被害で周辺の島々に、多くの犠牲者が出ていることを伝える。
そして、奈良女児殺害事件の犯人が捕まった。
大晦日、大雪になった。
私は再び延暦寺への挨拶のために、比叡山へ登った。
堂内に除夜の鐘が響く。
年が明けた。

淳一は4回目の化学治療の中、新年を迎えた。