その17

元旦は寒い朝だった。
昼の1時から、T医師の説明があった。
2回目の生検の結果が出ていた。
以前にも書いたが、横紋筋肉腫には組織の型として、主に胎児型と胞巣型がある。
その型によって、生存率が大きく違う。
転移を伴わない胎児型だと、6年後の生存率が60%であるのに対し、胞巣型では25%にすぎない。
淳一の腫瘍はもう脊椎の一部に転移しており、型は質の悪い胞巣型だった。
それに発症した場所によっても、治療後の生存率や治癒率が異なる。
淳一の腫瘍は胸の縦隔に発症していて、横紋筋肉腫の患者全体の1%程度だという。
お正月で外泊患者が多いのか、いつも忙しそうにしているT医師に時間的に余裕が感じられる。
その為、説明は長かった。
敗血症や感染症の心配、手術のこと、放射線治療、自己末梢血幹細胞移植、大量化学投与など。
敗血症とは体の中に細菌が入って、様々な症状を示す病気のことで、淳一のように化学治療で身体に抵抗力が低下している時、症状が悪化する可能性がある。
ショックを起こして死亡することもある。
3回目に投与したハイカムチンが予想以上の効果があったようで、腫瘍がかなり小さくなっていた。
当初大きいために取り除くことが不可能であるとして、選択肢に無かった手術が浮上してきた。
同様に放射線治療も行うことになった。
以前は当てる腫瘍が大きすぎたため、かなりの量の放射線を必要なので、近くにある食道や胃、それに心臓などの臓器に悪影響を与える心配があった。
1月4日に放射線の専門医から説明を受けることを告げ、T医師の話は終わった。
元旦から重たい話だった。
いつもなら、おせち料理を前にして正月番組でも観ているのだろう。
神戸の中華街へ出かけているかもしれない。
ここ数年、淳一はバスケット、亜由美と私は仕事が忙しく、家族で出かけることがほとんど無かった。
唯一、元旦だけはみんなで神戸の中華街へ出かけていた。
前年の正月も淳一は好きな鳥の唐揚げやニラ饅頭を、何個も平らげていた。
病院の昼食に、尾頭付きのタイが付いた簡単なおせち料理が出た。
淳一は食欲が無かったが、夜には亜由美が買ってきたハンバーガーをかろうじて3分の1ほど食べた。

1月2日、五郎が死んでいた。
ベタという熱帯魚だ。
半年程前、亜由美が我が家に連れてきた。
五郎と名付けたのは私だ。
オスはドレスのような大きな尾ビレと背ビレを持っている。
魚類でありながら、補助呼吸器官を持っているので、水面から口を出して空気中から酸素を摂取すること出来る。
それに水質にはあまりこだわらず、活発に泳ぎ回ることも少ない。だから、比較的小さな容器でも飼うことができる。
ペットショップなどでは、コップのような小さな容器にオスを1匹づつ入れて販売している。
つまり、手間が掛からないのだ。
タイでは闘魚として飼われていて、オス同士だと徹底的に相手を傷みつけるという。
だから、オスは1匹で飼わないといけない。
孤独を愛する熱帯魚なのだ。
魚が小さな空間で生活することに苦痛を感じないのは脳に記憶をつかさどる機能がないからだと、何かで読んだことがある。
味気ないにしても、哀しみや苦しみが蓄積されないなら、どんなに楽な人生を暮らせるだろうか。
狭い容器の中を、悠々と一人で泳いでいる姿は泰然自虐として、観ていると癒される。
主に亜由美が世話をしていたが、病院に泊まるようになってからは私が世話をするようになった。
水替えやエサやりを真面目にやっていたのだが。
熱帯魚であることを忘れていた。
寒かったろうに、申し訳ないことをした。
庭に埋葬してやった。

ベタの死が予兆であるかのように、1月に入って小児科の子供が次ぎ次ぎと亡くなった。
白血病、脳腫瘍、そして横紋筋肉腫、死をもたらす病気は様々だ。
一時淳一と一緒の病室にいたR君も急に体調を崩し、亡くなった。
脳腫瘍だった。
小児科といえど、二十歳を過ぎた患者が入院している。
幼い頃から発病し、ずっと病院で治療を受けている患者だ。
病名が判らない、その患者も亡くなっている。
そして、1月末に、横紋筋肉腫のN君が亡くなった。
淳一と同じ病気だけに、私たち家族の受け止め方には複雑なものがあった。

時折、病室の前に赤いワゴンが置かれていた。
そのワゴンには緊急の救命用医療器具が用意されているという。
それが置かれている病室では患者の容態がただ事ではないことを表しているとも言われる。
1月に赤いワゴンが置かれ、医師や看護師が慌てて出たり入ったりしている光景を2度見かけた。

1月4日初出勤で年賀式が行われたが、私は休暇を取った。
放射線科の医師から治療の説明があったからだ。
私が病院に着くと、すでに妻は医師の説明を受けており、再度私と亜由美に説明を受けた。
放射線科は1階にあった。
診療室に入ると、年輩の医師が待っていた。
CTの画像を見ながら、当てる位置、量や副作用の説明をする。
放射線治療には、主に体の外から放射線をあてる外部照射と、体内に針や管を入れ、患部に直接放射線のでる物質を入れて治療する内部照射がある。
ほとんどの場合外部照射であり、淳一の場合も外部照射になる。
放射線といえば原爆を思い浮かべて、危険な感じがする。
もちろん、使用する範囲と質量が違う。
照射する物質は同じだが、放射線治療は患部に集中して照射して、ガン細胞を死に至らしめ、細胞のDNAに直接作用して細胞が分裂して数を増加させる能力をなくしたりする。
当然、周辺の正常細胞にも少なからず影響がある。
放射線を照射する線量はグレイで表される。
患者の年齢や全身の状態を考えて、どれだけの線量を照射するか、全部でどれだけ照射するかを決める。
通常、一日2グレイ前後で、月曜から金曜まで照射し、土日を休み約6週間前後、続けるのが標準的なのだという。
1回の照射時間は数秒から5分程度で済む。
照射には痛みは無いが、治療後食道や胃の消化器の粘膜がただれたりすることがある。
また、不整脈などの心筋傷害や二次的に発ガンすることさえある。
医師は副作用を丁寧に説明した。
淳一の場合、1.8グレイを1月12日から一ヶ月半行い、全部で40グレイを照射した。
その副作用で、喉の粘膜がただれ食事が出来ない状態が続いた。

1990年 、アメリカのドンナル・トーマス博士はノーベル医学生理学賞を受賞した。
骨髄移植という治療方法を開発した功績が認められたからだ。
骨髄移植は多くの白血病患者を救った。
骨髄移植に加えて、最近では母親と赤ちゃんをつないでいたへその緒を利用した臍帯血移植や末梢血幹細胞移植が行われるようになった。
これらをまとめて造血幹細胞移植という。
ふたつの役割がある。
強い抗がん剤や放射線治療を受けた後に、へろへろになってしまった造血機能(骨髄)を助けるために健康な造血細胞を補充する役割、そしし、がん細胞を攻撃する免疫細胞を新たに入れ替えることで、がん細胞に対してより強力な破壊力を発揮させる役割である。
血液中には白血球、赤血球、血小板がある。
それらは絶えず新しいものと入れ替わっている。
毎日、骨髄の中で、膨大な量の造血幹細胞が分裂と増殖を繰り返している。
造血幹細胞には自分自身で複製する能力(自己再生能)があり、抗がん剤の投与後や白血球を増やす薬剤である顆粒球刺激因子の投与後に、血液中に流れ出てくる。
これを末梢血幹細胞という。(国立ガンセンターのHPより抜粋)
淳一はこの先、何回かの抗がん剤治療を経て、大量化学投与が待っている。
10倍の量の抗がん剤を入れる治療だ。
骨髄はぼろぼろになってしまう。
そこで、あらかじめ採取していた造血幹細胞を補充してやることになる。
1月7日、淳一は末梢血幹細胞の採血を行った。
造血幹細胞は通常末梢血の中にわずかしかないが、化学治療の後の白血球が増える時期には血液中に増加してくる。
それを採取しておく。
4回目の化学治療が終わり、徐々に骨髄が立ち直りつつあった。
個室に大きな機械が持ち込まれた。
血液成分分離装置だ。
淳一の血液はこの機械を通って、末梢血だけを採る。
数時間を要したが、その日は規定量の末梢血を採取することが出来なかった。
翌日再び行い、充分な量を得ることに成功した。
それは大量化学投与まで冷凍保存された。

1月9日日曜日、外泊許可が出た。
白血球が1万2千まで増え、骨髄は回復していた。
1泊2日の帰宅である。
11月中旬、2度目の生検前に外泊して以来である。
この間、いろんなことを経験し、どん底を味わった。
やせ細り、髪の毛はほとんど無くなっていた。
足の痛みが残っていて、身体を動かすのにかなりのエネルギーがいるようだったが、よくここまで回復したものだ。
久しぶりの自宅に、淳一はホッとした表情を浮かべていた。
我が家は3階建てで1階は私の両親が住んでいたが、今は空き部屋になっている。
私たち家族のリビングは2階にあり、階段はかなり急になっている。
歩くことさえ出来ない淳一は自力で上がることが出来ない。
バスケット仲間のK君が来て、淳一を2階に上げるのを手伝ってくれた。
元気なときは飛び跳ねるように上がっていた階段なのに。
夕方、もう一人バスケット仲間のM君が加わりテレビゲームをしていたが、疲れた様子なので帰ってもらった。
翌日の昼、淳一が和食なら食べられそうだというので音羽寿司で食事をした。
音羽寿司を選んだのは車椅子で入って食事が出来たからだ。
化学治療の後なので寿司などの生ものは食べられないが、ふぐの唐揚げや焼きガニに箸を付けた。
食欲があるわけではないが、外食の雰囲気を楽しんでいる様子だった。
その後、友達を交えて服を買いに出かけた。
二日間の外泊はアッという間に終わった。
夜、義母の作った夕食を申し訳程度に食べた後、淳一は淡々とした表情で病院へ向かった。

「お父さん、この病院にがんの人って、いるの?」
淳一はテレビゲームをしていた手を休め、急に訊く。
妻が買い物に出かけて、病室には私と淳一のふたりだけだった。
私は平静を装いながら、「うん、上の階にはいるのやろな」と応えた。
会話はそれっきりだった。
ぼんやりとがんではないかと疑っているのだが、はっきり訊くのを躊躇している。                        告知されたといっても、はっきりがんと告げられた訳ではない。
怖いもの見たさに、恐る恐る私に石を投げたのだろう。  
中途半端な返事だった。
「お前の病気はがんだ。でも、必ず治る。だから、頑張って治療しよう」とでも言えば良かったのだろうか。
闘病する上で、そう告げたほうが淳一にとって良いと言われても、私にはそれを告げる勇気は無かった。

その頃、会社ではくすぶっていた問題が浮上してきた。
なんとも、理不尽な話だった。