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その20
 

人は心のどこかで、人の役に立ちたいと思う。
人のために働きたいと思う。
子供に「将来、何になりたいですか」という質問をすると、パイロット、スチュワーデスと並んで、必ず医者や看護師が出てくる。
人の命を助け、苦しみを和らげる。
純粋な子供の目から理想的な職業と映るのだろうが、病院の仕事はそんなきれい事で語られるようなものではない。
過酷な職場だ。
製薬会社のCMでは病院の退院シーンが映され、「君の笑顔が見たいから」なんて、唄が流れる。
この病院の小児科では、笑顔で退院するケースなんて数少ないのではないか。
街の医院で手に負えない病人たちが運ばれてくる。
がん、心臓疾患や聞いたことのない病名の子供たちが死と隣り合わせにしながら、ベッドに横たわっている。
その間を医師や看護師たちが忙しく動き回る。

担当のT医師はいつ休んでいるのだろう。
深夜であろうが、土日であろうが、病室に現れる。
大晦日や元旦にも廊下を急ぎ足で歩くのを見かけた。
本人は「休みは無いですよ」という。
でも、この人の疲れた顔を一度も見たことがなかった。
実家が病院をしているらしい。
小柄で童顔だが、いかにも気が強そうである。
年齢は30を少し超えているようだ。
1年程世話になったが、この人と淳一の病気のこと以外、雑談らしい会話をほとんどしなかった。
仕事以外に趣味があるのだろうか。
彼氏はいるのだろうか。
ぼぅっとして、音楽を聴いたりするのだろうか。
病院に通う1年間、私に余裕が無かったのだろうが、毅然として振る舞う態度に雑談を差し挟む余地を見つけることが出来なかった。
妻と亜由美はかなりうち解けていたようだが、個人的な事はほとんど語らなかったようだ。

看護師たちも献身的だった。
子供たちや家族の我がままにも、笑顔で接してくれる。
私など、目を覆いたくなるような病状の子供を前にすると、怯んでしまう。
病院での仕事に比べると、私の職業はなんと平和な仕事なのかと思う。
ちょっと、印刷の校正をミスして刷り直ししたとしても、ちょっとのお金が手元から離れていくだけではないか。
仕事が無くなったとしても、売り上げの棒グラフが少し下がるだけではないか。
人はミスを犯すものだ。
病院ではひとつのミスが生死に関わってくる。
高度先端医療が完備されている大学病院でも、患者取り違えや輸血間違いのような初歩的な医療ミスが起こっている。
病院側も細心の注意を払い、末端で働く看護師たちは常にプレッシャーと闘っているようだ。
日々、戸惑ったり緊張したりしているのだろうが、私たちの周りにいた医師や看護師たちは 淡々と仕事をこなしていた。
おそらく、舞台裏ではいろんな葛藤があったはず。
3月末、小児科内科の看護師が何人か辞めた。
女性ばかりの職場には何かといざこざもあるのだろう。
妻と亜由美が親しくしていたY看護師も病院を去った。
淳一は大量化学投与の真っ最中で、吐き気と倦怠感が徐々に襲ってくる頃だったが、Y看護師との記念写真に収まっていた。
それから1年後、Y看護師は結婚され、亜由美と妻は式に出席した。
思い出のシーンが映しだされる中に、この時の記念写真が紹介されていた。

小児外科に、島根出身の看護師さんがいた。
「淳君、もう少し辛抱じゃけん。頑張らないけんよ」と躊躇なく、方言が出る。
安木節でどじょうすくいを踊りそうである。
病状が思わしくなく沈みがちの病室で、土の香りがしそうな地方言葉を聞いて、思わす私はホッとした気分にさせられたものである。
だが、気に入った看護師さんばかりではない。
妻が絶対許すことが出来ないという看護師もいた。
後に触れるが、その看護師の発した一言が許せなかったのだ。

大量化学投与が始まった3月24日、淳一の友達N君が神奈川県から見舞いにやって来た。
少年バレーの仲間である。
お父さんの転勤で、N君とは7ヶ月程度しかバレーを一緒にしなかったが、離ればなれになっても連絡を取り合う仲だった。
淳一がバレーを始めたのは小学生3年生の時だ。
妻が参加していたママさんバレーのコーチが少女バレーのチームを指導していたので、淳一もそのチームに参加した。
バレーボールする少女は多かったが、男子は極めて少ない。
1チーム6人が集まるかどうかである。
スポーツ人口が増えるかどうかは日本のチームが世界で活躍するかどうかに掛かっている。
それに、テレビドラマや漫画で取り上げられると、そのスポーツは人気が出る。
古いところで「アタックNO1」で女子バレーが人気になり、爆発的にバレー人口が増えた。
最近では「テニスの王子様」でテニス人口が増えたという。
男子バレーはミュンヘンオリンピックをピークに低迷し、今ではスポーツニュースの話題に上らない。
野球やサッカーに子供が集まり、男子バレーなど見向きもされない。
少女のチームがたくさんで練習をする体育館の隅で、少年バレーは遠慮がちに練習していた。
淳一の入ったHチームも6人ぎりぎりだった。
それがひとり辞め、二人卒業するやらで、1チーム出来ない状態になった。
近くのO小学校チームも、メンバー不足で困っていた。
そこで、監督同士が話し合い、淳一の参加していたHチームはOチームと合併することになった。
練習拠点はO小学校の体育館になり、伊丹ボーイズとしてスタートする。
それでもメンバーは8人足らずで、隣りで練習する女子バレーのほうが圧倒的に多かった。
Oチームに参加していたN君は淳一と同じ学年で、ふたりはすぐに仲良くなった。
女性監督の指導の下で、学校が終わってからO学校の体育館に出かけて練習していた。
妻とN君の母親が保護者の中心的な存在となり、子供たちの面倒を見る。
時には福井や金沢まで遠征試合に出かけることもあった。
保護者の中には父親も参加していたが、私はほとんど関わらなかった。
初めから無関心だったのではない。
最初の頃に見学した練習試合が原因だった。
その試合を観て、驚いたというより吐き気さえ覚えた。
尼崎のM少年チームとの試合だった。
少年バレーは大人のバレーのように鋭くアタックが決まるわけではない。
サーブが入るか入らないかが勝負の分かれ目なのだ。
とにかく、相手チームのコートにボールを返すことが大切で、ミスしたほうが負ける。
どのチームの監督やコーチたちは少年たちのミスに対して体育館中に響くような大声で怒鳴っている。
しかし、相手のM少年チームの監督は大声で怒ったりしない。
殴るのだ。
ミスをした子供たちを思い切り、げんこつで殴っていた。
それも鼻血が出るほどに殴り、蹴り、ボールを投げつける。
それでも子供たちは泣きながら、すぐにポジションに戻る。
サーブが飛んできて、またミスをする。
その監督が黙ってコートに歩み寄り、ミスした子供の顔を思い切りゲンコツで殴りつける。
子供はしゃくり上げるように泣いているが、再びポジションに戻るのだ。
実際、鼻血を出した子供はコートの外に一旦出て、保護者が鼻血を拭っているが、また子供をコートに戻した。
相手をしている淳一たちはその異常な光景に戸惑っていたのだが、試合は続けられた。
この監督の行為を誰も止める様子はない。
止めるどころか、母親たちは「もっと、腰を落として」「ボールに向かって行け」とか、叱咤する。
異様な光景だった。
私は体罰を全面否定するような、ヒューマニストではない。
スポーツだから、身体で覚えさせるために少々の体罰も仕方がないとは思う。
しかし、スポーツとはいえ、相手は10歳そこそこの子供たちである。
それもどこがどう悪いのかを指摘することもなく、無言で殴りつけるのだ。
私はそばにいた保護者たちに、「これ、ひどすぎるのと違います?」というと、「すごいでしょう」と半ば感心しているような返事が返ってきた。
帰宅してから妻に聞くと、その監督はチームを常勝チームに育てる有名な監督なんだという。
有名であろうがなかろうが、子供たちは楽しいのだろうか。
監督をどうのこうのというより、これを認めている保護者たちがいること事態、奇妙な感じがした。
後の話だが、私が疑問に思ったとおり、この監督は暴力指導が原因で、尼崎の少年バレーから永久追放になったという。
淳一のチームはこんな監督でなくて良かったと安心したのもつかの間だった。
その後、暴力指導は淳一のチームでも問題となる。
N君は父親の転勤で、神奈川県へ引っ越していく。
続いて、淳一と同じ歳のW君が厳しい練習に耐えかねて、チームを去った。
合併したのもつかの間、再びメンバーが減り、チームは8人になった。
淳一、D君、H君の5年生3人とK君、ちびD君の4年生がふたり、それに小学生2年生のS君が加わって、取りあえず6人のチームが出来た。
残りの二人は初心者で、試合に出られる状態ではなく、少し経験のあるS君が試合に出ていた。
S君のサーブしたボールは相手コートに届かないい、練習中に体育館の隅で眠ってしまうことさえあった。
S君はみんなからボールに触るなとさえ言われ、サーブの時以外ボールに触れることがほとんど無かった。
そんなデコボコチームだったが、みんなバレーを楽しんでいた。
それまで監督をしていたNさんが都合でチームの面倒が見られなくなり、急遽伊丹の実業団チームで監督をしていたHさんが伊丹ボーイズの監督になった。
私はその頃から、練習試合の遠征に運転手として、かり出されるようになっていた。
最初の頃、H監督は「少年バレーは教育の一環ですからね」といい、相手チームの監督が体罰を振るうのに批判的だった。
その態度が徐々に変化していく。
伊丹ボーイズはデコボコチームだったが、試合に勝つようになる。
3人の5年生がほとんど、ボールを支配する。
D君がトスを上げ、淳一とH君がアタックする。
試合に勝ち進んでくると、監督の指導にも熱が入ってくる。
一度手を出すと、体罰指導はエスカレートしていった。
試合の成績はさも体罰指導が正しいかのように、勝つことが多くなった。
阪神地区の決勝まで進み、今まで手も足も出なかった常勝チームの三田Nチームに勝った。
身長の高いまとまったチームに対して、小学生2年生が入っているデコボコチームが拾いまくって勝つゲームは観ていて爽快だった。
だが、さらに監督の体罰はひどくなっていく。
少しミスするだけで、至近距離からボールを投げられ、ほっぺたを平手で殴る。
自分の子供がコートで殴られている姿を見るのは、決して良い気持ちがしない。
淳一は試合の合間、コートの隅で泣き続けていた。
息子が目の前で殴られている姿を見て何もしない親の姿は、淳一の目にどう映っていたのだろう。
厳しい体罰指導、そして弱点だらけだが試合に勝つチームとして、他のチームからも注目を浴びるようになる。
体育館で暴力指導を目にし吐き気さえ覚え、それを見過ごしている保護者たちを批判した私は、いつの間にかその保護者たちの立場に立っていた。
淳一は殴られて唇を切り、食事が出来ないことさえあった。
体罰指導が余りにエスカレートするので、たまりかねた保護者がファミリーレストランに集合し、話し合った。
保護者の間では体罰指導の対する考えが微妙に違っていた。
体罰を全く批判するもの、強くなるなら少しぐらいは仕方がないとするもの。
確かにチームは強くなっていた。
ひょっとすると、全国に行けるかも知れないと淡い期待を抱き、さらに強くなってほしいと願う。
バレーをする目的は子供たちがバレーを楽しみながら、心身を鍛えることだということを、保護者の誰もが判っている。
しかし、チームが勝ち続けると、誰もが興奮し勝負にこだわり始める。
話し合いの結果、監督に「殴る」の指導は止めてもらうことを告げ、監督もはっきりと「止める」と宣言した。
ところが、身体に触れる体罰は無くなったものの、ミスした子供に至近距離からボールを投げつける行為が続くのである。
鬼のように怒った顔をして子供をにらみ付けながらボールを投げつける。
その光景は40年ほど前に見た、大松監督率いるニチボウ貝塚の練習を思い出させた。
監督も東京オリンピックの日本とソビエトの試合に興奮した年代である。
「チームを強くしたい」その思いから、熱が入ってしまっていたのだろうが、される淳一は必死で耐えていたようで、それも限界に達していた。
練習に行く前には部屋の隅でうずくまり、「もう、行きたくない」と泣いた。
チームは勝ち続け大会が迫る中、主将を務める淳一を休ませるわけにはいかない状況だった。
私は淳一を車に乗せて体育館まで送り届けたことが何度かあったが、淳一はふてくされたように黙り込んで車のシートで丸くなっていた。
予選を勝ち進み、阪神大会や兵庫県大会に出場した。
淳一は幸運にも、二つの大会とも選手宣誓を経験する。
たくさんの選手をバックに宣誓する姿を、私は自慢げにカメラを回したものだ。
バレーボールは見ていて、興奮するスポーツだ。
スリリングだ。
ボールが床に落ちるぎりぎりで拾い、つなぎ、アタックする。
小さな子供ばかりが集まった伊丹ボーイズが相手チームの大きな子が放つアタックを拾い、逆に小さな淳一が精一杯飛び上がりアタックを決める。
体育館に歓声が響き渡ると、私は身震いがするような快感を味わった。
しかし、保護者たちの歓声に背を向けるように、淳一の心は次第にバレーボールから離れていった。
体罰指導に身を縮め、監督に対する恐怖心が募った。
練習に行くも体育館の前でうずくまり、中に入れなかった事さえあったという。
無口な子がさらに無口になり、時折「バスケットがしたい」と言い出す。
友達がミニバスケットをしていて、それが楽しそうに見えたようだ。
「せっかくここまで来たのに、最後までやり遂げないと」
嫌がる子供に親が放つ常套句で、背中を押した。
淳一は拷問の刑場に連れられるように、重い足取りで練習に向かった。
淳一はバレーが好きだった。
バレーの面白さを良く知っていた。
しかし、気持ちは完全にバレーから離れていた。
暴力指導に吐き気さえを覚えたはずの私だったが、何もしてやれなかった。
淳一が亡くなってから、バレーでの出来事がかさぶたとなって、重たく心に残った。
2度近畿大会に進んだが、170cmを超える選手ばかりの対戦チームに為すすべもなく、二度とも初戦で敗退した。
バレーの仲間たちがみんな中学に入ってバレーボールクラブへ入部したのに、淳一はバスケットを選んだ。

大量化学療法で使用する抗がん剤はテスパミンとアルケランである。
腎臓の機能障害、粘膜障害、中枢神経障害、アレルギー反応などが出る。
口内炎、下痢、疼痛、咽頭痛、腹痛などの副作用がある。
今までの治療と違い、大量化学療法は今までの量の10倍近い抗がん剤を投与する。
テスパミンは3月24日と25日とその1週間後の3月31日と4月1日、285mgを生理食塩水に混ぜて24時間投与し、アルケランは同じ日に100mgを1時間投与した。
なぜこの薬を選んだかは、渡された説明の紙に書かれた「これらの薬剤は以前より難治性の固形または血液腫瘍に対し用いられ効果をあげてきました」という一文で納得するしかない。
ハイカムチンという抗がん剤は淳一の腫瘍によく効いたのだが、何度も使って耐性が出来ているようだった。
耐性とはがん細胞が薬に対して抵抗する力を持つことだ。
有効だとして使っていても、がん細胞はその薬に慣れてしまう。
効果があったとしても、何度も使えない。
2.3日後から徐々に気だるさや吐き気が襲ってくる。
白血球の数値が下がりはじめる。
とともに、腫瘍マーカーも低下する。
淳一に流れ込んでいく液体は身体の奥深くで悪人と闘っている。
痩せ衰えていく不安。
必ず元気になるという希望。
それらが交差する。

3月31日、淳一はどす黒くなった手を眺めていた。
「治療が終わると、元に戻るからね」
妻がいうと、安心したように笑みを返した。
その翌日、抗がん剤の大量投与は終わった。
しかし、副作用の苦しみはその後1ヶ月余り続く。

人が苦しんでいようが悲しんでいようが、桜は咲く。
陽光に向かって、誇らしげに。
万博公園の桜も一斉に蕾を開いた。
6階のデイルームから見下ろす。
緑とピンクのコントラストが見事だった。
テレビのワイドショーで、本田美奈子やカンニングの中島のことが報道されている。
どちらも1月に白血病であることが発覚し、化学治療をしているという。
雨は場所を選ばず、突然降ってくる。