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その21
 

左手に南座を見ながら、四条大橋を渡る。
川沿いの桜が暗闇に映える。
鴨川べりには等間隔でアベックが座っている。
橋の上で、祇園や円山公園へ向かう人たちとすれ違う。
先斗町、木屋町の通りを横切る。
4月、夜の7時。
人、人、人。
地図を開いてみている観光客、手をつなぐアベック、警察官に道を聞く老人、似顔絵を売る外人、ギターで長渕を歌うストリートミュージシャン、その前に座る女子高生たち、ティッシュを配る女、呼び込みをする黒いスーツの男。
何事も起こっていないように、喧噪の中をさまよう。
人は人の悩みなど判らない。
「なんで、そんな平気な顔していられるのか?」と、大声を辺り一面に投げつけたくなる。
見飽きた光景が何故こんなにも腹立たしく映るのだろう。
しかし、その反面、私は寛容になっている。
帽子を深めに被り、シャツを出し、ジーパンを地面に付きそうになるほど下ろしている。
いつも淳一がしているのと、同じ格好の若者たち。
彼らが「ウザイ」と見下ろす老年にさしかかりつつあるオジサンはだらしなく道ばたに座る若者たちに目を細めてしまう。
今なら彼らのすべてを許せるような。
親に背を向ける若者も、無口にさげすむような眼差しをする若者も、橋の上でナンパする若者も、定職を持たずアルバイトでその日暮らしをする若者も。
みんな、許せる。
人目をはばからず、女子高生の肩を抱き、いちゃつく学生風の若者がいた。
通行人たちはその光景に汚物でも見るような視線を投げかけ、通り過ぎていく。
でも、許せる。
どうせ、人生なんて上手くいかないのだ。
好きに生きれば良い。
生きたいように生きれば良い。
生きているだけ、それで良い。
淳一にもあの胸がヒリヒリするような恋を味合わせたい。
身体がとろけるような、楽しくて仕方がない時間を経験させてやりたい。
病気が判明する前の夏休みの終わりのことだった。
淳一は自転車で猪名川の花火に出かけた。
かなり遅くに帰ってきた淳一を、心配した妻はかなり強い調子で怒っていた。
妻が「誰と行ってたの?」というと、ひとりで行ったという。
ひとりで行く訳がないと妻が追求するが、淳一は何も言わず黙っていた。
かたくなに黙っている淳一が滑稽であり、愛らしかった。
誰と花火を見上げていたのだろうと、時折思う。

阪急電車河原町駅に通じる階段を降りる。
いつものように、7時9分発の通勤急行に乗った。
これなら、病院に8時過ぎに着く。
高槻市駅で普通に乗り換え、南茨木で降りる。
繰り返される「普通」でない日々。
「普通」であったなら、この駅でモノレールなど待つことも無かった。
定期券のように行き帰りする「普通」の生活が懐かしくさえある。
モノレールは暗くなった空間を、ゆっくりとした速度で移動する。
車窓の景色は時間の流れを示すように、現在から過去へと遠ざかっていく。
淳一とモノレールに乗るために、千里中央まで出かけたことがあった。
5年程前のことだ。
確か、淳一が乗りたいと言ったのだろう。
滅多に乗る機会のない乗り物だ。
まさか、毎日乗ることになるとは。
万博公園前に着くと、阪大病院行きのモノレールが時間待ちをしている。
車両には数人の人が乗っているだけで、閑散としている。
見慣れた顔もある。
同じ車両に乗ると、いつも同じ人を見る。
家族が阪大病院に入院しているのだろう。
終点の阪大病院前に着くと、乗客は病院へ向かう者と近くの住宅街へ向かう者とが左右に分かれる。
左へ行くと、すぐそこに病院の大きな建物がある。
面会用入り口の前ではタバコを吸いに降りている患者たちがたむろしている。
面会時間が過ぎた病院の廊下は人影もまばらで、足音だけが響く。
四条のにぎわいと別世界のようだ。
急に気分が重くなる。
手を消毒し気持ちを立て直して、病室のドアを開けた。
病室の空気が黄ばんでいるように見える。 
大量化学投与を終えた淳一は苦しみの底でもがいている。
4月1日に点滴が終わった時、淳一はすべての治療が終わったと喜んでいた。
これが最後の治療と言われていたからだ。
しかし、化学治療の苦しみは投与が終わってから徐々にやってくる。
激しい嘔吐、腹痛と下痢、口内炎などの粘膜障害、倦怠感。
通常、大量化学投与の副作用は1ヶ月から2ヶ月の間、続くとT医師は言っていた。
その苦しみはどんなものか判らない。
「オエー」と繰り返される嘔吐に、私は思わず耳をふさぎたくなる。
亜由美が受け皿を差し出し、妻が背中をさする。
吐き出されるのは澱んだ胆汁だけである。
それに下痢が襲う。
淳一が「トイレ」と言うと、妻か私が点滴を持ち、亜由美が淳一の肩を支えて部屋のトイレまで連れていく。
トイレまでのわずか2メートルを、淳一は歯を食いしばりながら歩く。
トイレのドアを開け洗浄用の液や脱脂綿を用意する。
尿は量を量るために尿瓶で受け、それを持ってナースステーション横にある測りまで持っていく。
この作業が何度となく繰り返された。

これらの一連の作業を取り仕切るのは亜由美だった。
私が何より驚いたのは淳一が病気になってから娘の変わり様だ。
亜由美は私とよく似てマイペースなところがあり、成人してから家で過ごすことが少なくなった。
高校時代から近くのフラワーショップでアルバイトを経験し、その時花に触れるのが楽しかったのか、高校を卒業して花の専門学校へ通った。
卒業後、アルバイトをしていた江坂のフラワーショップに就職する予定だったが、店の雰囲気が合わなかったらしく、居酒屋のチェーン店が副業でする花屋さんにアルバイトとして働くことになった。
花屋はあまり手広くする商売ではない。
花は日持ちしない上に、温度や湿度など手間が掛かる。
商品のロスが多く利益率が悪いため、正社員を多く抱えて出来る商売ではない。
身内でする小さな花屋が多いのだ。
だから、結構就職を探すのには苦労したようだ。
結局勤務時間は不規則なアルバイトとして勤めることになったが、好きな花の仕事が出来て満足しているようだった。
仕事や遊びが忙しく家に居る時間が少なかった娘だったが、淳一の病気を知ってから、一転して家庭で中心的な存在になる。
妻と交代で病院に寝泊まりする。
妻が疲れている時は代わって連泊した。
下の世話も戸惑う様子もなく、手際良く進めた。
その手つきの素早さは「看護の仕事をしているの?」と看護師さんから言われるほどだった。
カンファレンスの際も積極的に自分の意見を言い、相手の医師がたじろぐ場面もあった。
「今日、お父さんはこれとこれをして、午後から病院へ来て」とか、 「お母さんは昼から家に帰って休んできて。今日と明日は私が泊まるから」と、看護のスケジュールや行動を積極的に取り仕切っていく。
一々口を挟むのでうるさく感じられることもあったが、頼もしかった。
娘が居なかったらどうなっていたのだろうと振り返る。
いつの間に、こんなにしっかりした娘に成長していたのだろう。
我が儘ばかり言っていた娘は私の知らないところで、社会から生きるすべを学んでいたようだ。
背丈が伸びていることしか、私は子供について知らなかったのではないだろうか。

淳一にしても、そうだ。
淳一は押し黙ったまま、襲ってくる嘔吐や下痢に耐えていた。
弱音や愚痴は言わなかった。
「こんなに、強い子供だったろうか」
幼い頃はちょっとしたことで泣いてばかりいた。
母親のそばにくっついて哺乳瓶を握りしめていた。
私は子供を猫可愛がりするような父親ではない。
むしろ、適当に距離を置いて、眺めていた。
子供の成長を断片的に傍観しているような父親だった。
妻と比較すると、子供の接する時間は半分以下だろう。
私の知らないところで、息子はバレーやバスケット、そして病気を通じて、内面的に力強く成長していた。
しかし、4月7日、副作用のツラサは極限に達しているようだった。
妻に「助けて」と何度かつぶやき、「なんで、僕だけこんな目に遭うの」と泣きべそをかく。
集中治療室にいた頃、淳一はよく泣いていたようで、外科の看護師さんたちは「泣き虫淳君」なんて呼んでいた。
しかし、妻や私の前で決して泣き言を言わなかった。
この時は相当つらかったのだろう、自分の境遇や不運をこぼしていた。
淳一が弱音を吐いたのはこの時だけだった。
病状が悪化し、9月に亡くなるまで苦しい場面を経験するが、決してツライことを口に出して言わなかった。
「黙ったまま、じっとしている。冷めた目。何を思い、何を考えているのだろう」
私は日記にそう記している。
無口で、自分を表現するのが苦手な子供だった。
それだけに、損をする経験も多くあったようだ。

4月4日に腹痛を訴えて、初めてモルヒネを打つ。
白血球や赤血球が下がり骨髄の機能が低下し、1月に採取した自己末梢幹細胞を4月5日に移植した。
淳一の身体は泥で澱んだ池のように、どす黒く変色している。
バスケットのコートを走り回った筋肉質の足は老人のように細っていた。
副作用に歯を食いしばっている間も、淳一の骨髄は徐々に回復の兆しを見せ始める。
4月15日、白血球は13000まで立ち上がった。
T医師が「驚異的」と表現するほどに、淳一の骨髄はタフだった。
ここまで化学治療を5回経験しているが、3ヶ月余りでこの回数はかなり多いほうである。
これは骨髄の立ち上がりが早く、通常より治療の間隔が短いためなのだが、それは骨髄の元気さを示すと反面、ガン細胞の増殖が激しいことも表している。
表現は適切でないかもしれないが、ターミネーター2に出てくる形状記憶擬似体合金のロボットTー1000が一旦バラバラになって、再び繋がって復活するような情景を思い浮かべてしまう。
「驚異的」といって、手放しでは喜べなかった。

「おチンチンが痛いって、言っている」
男の子との身体の事は判らないから、私に看て欲しいと妻が言う。
息子のおチンチンを見ることに少し戸惑った。
淳一は恥ずかしがることもなく、パンツを下ろした。
頻繁に襲ってくる下痢を経験し、おしめを付ける時期があったせいか、妻や亜由美、それに看護師さんの前で下半身をさらすことに、ためらう気持ちは無くなっていた。
その潔さが哀れでもあった。
下腹の辺りは黒ずみ、痩せて足の付け根の骨が突き出ていた。
おチンチンも薬の影響で黒く変色していた。
何かの拍子でおチンチンの外皮が剥け、陰茎の亀頭が白く顔を覗かせている。
大人へ成長していく過程でもある。
「大人になるとこの状態になるから、そのままにしておいたら」と私が言う。
「痛いって、言ってるけど…」と、妻は不満そうだった。、
ところが、数日後「痛いのはどう?」と私が訊ねると、「あれね、先生が元に戻してくれた」と妻が応える。
病状を見に来た男の先生に妻がおチンチンのこと訴えると、先生はすぐに外皮をかぶせたらしい。
「あのままの状態で良かったのに」という私のつぶやきは妻には聞こえなかったようだ。

小児科のデイルームに、テレビで見たことがある人物がいた。
顔は覚えているが、すぐに名前が出てこなかった。
「欽ちゃんのどこまでやるの!」に出ていた長江健次だと思い出す。
もう20年以上前に流行った番組だ。
確か、「良い子悪い子普通の子」のフツオ役で出演していた。
子供が小児外科に入院しているという。
今はスノーボードのインストラクターをしているということで、顔は真っ黒に日焼けしていた。
何度かデイルームで見かけたが、その後子供が退院したらしく、姿が見えなくなった。
見舞客や家族がくると、デイルームは賑わう。
ここで食事をする人も多く、食事時は満席になる。
南向きに広がった窓から、容赦なく日差しが入り込んでくる。
4月24日日曜日、大量化学治療が始まって以来、淳一は初めてデイルームまでやって来た。
そして、展望レストランがある14階まで、車椅子を転がした。
ストレスが溜まっている様子だったので、気晴らしのつもりで病室を出たが、すぐに気分が悪くなった。
病室に戻ってから何度も嘔吐した。

翌日、JR尼崎で大きな事故が起きた。
京橋に勤めている亜由美がよく乗っていた時間帯の電車である。
もし、病院で看病する生活をしていなかったなら、事故に遭遇していたかもしれない。
日に日に犠牲者が増えていった。
ベッドの横にあるテレビは折れ曲がった車両を映しだし、事故の凄まじさを伝えていた。
淳一は横になって、その画面を見入っている。
突然襲われる吐き気に、慌てて受け皿を持つ。
様々な不幸のドラマが映し出されている。
妻を亡くした者、夫を亡くした者、親を亡くした者、子供を無くした者。
それぞれが思っても見なかった悲しみに襲われている。
しかし、テレビ画面の映像は映画のスペクタクルのようで、その衝撃や悲壮感が現実味を持って、私の胸に届かない。
こんなに近くで起きた事故なのに。
病室で見ているからだろうか。
どんなに多くの人が亡くなっても、自分の歯の痛みのほうが気になる。
身勝手と言われても、それが率直な気持ちだった。