突然、その日はやって来た。
9月16日金曜日、私は5時半に起床し、6時15分に車で病院へ向かった。
義母がやってきて、おにぎりと卵焼きの入った弁当箱を持たせてくれる。
いつものように、国道171号線を西へ走り、猪名川を越えて中央環状線に入る。
まだ、朝のラッシュは始まっていない。
空には雲ひとつ無く澄んだ秋色をしていたが、日差しはまだ夏の強さだった。
万博公園の周回道路を抜けて、病院の駐車場へ入った。
6時45分だった。
病院はまだ、目覚めていない。
通用門の入り口付近では、早起きの患者たちがヤンキー座りでタバコを吹かしている。
閑散とした廊下を歩く。
エレベーターで6階の小児科病棟まで上がる。
デイルームには誰もいない。
2,3人の宿直看護師がいるナースステーションを横切り、個室が並ぶ廊下を歩いた。
手の消毒をしてから、ドアを開けた。
亜由美と妻が眠っている淳一のそばに立っていた。
朝日が病室の中央まで差し込んでいる。
淳一はバスケットボールを抱いて眠っていた。
いつもと様子が違った。
「どうした?」
私は義母の作った弁当を椅子に置きながら訊く。
「うん、反応がちょっと。眠っているのだろうけど」
亜由美が応えた。
「淳一、お父さん、来たよ」
妻が声を掛けるが、反応が無い。
「大丈夫なんか」と私が訊くと、妻は「うん」と戸惑いながら頷く。
「看護師さん、呼んだ方がええんと違うか」
「いや、大丈夫やと思うけど」
妻は自分に言い聞かせるように言う。
私は阪大病院前駅7時25分発のモノレールに乗って会社に行く予定だった。
「取りあえず、弁当食べてくる」
弁当箱を持って、デイルームへ行く。
150円のペットボトルを買って、窓際の椅子に座った。
真っ青な空の下に万博公園の緑が広がり、遠くに梅田のビル群が小さく見えた。
おにぎりを一つ食べ終えた時、妻が携帯電話を持ってやって来た。
「お祖母ちゃんに電話する」
デイルームからの携帯電話は許可されている。
「お祖母ちゃん、ちょっと淳一の様子がおかしいの。すぐにこっちへ来てくれる」
そう伝えて携帯電話を閉じる。
「どうなんや」
私は食べかけていたおにぎりを弁当箱に戻した。
「うん。ちょっと様子が変なん」
妻が小声で言うと、病室へ向かった。
私も急いで、後に付いていく。
病室のドアを開けると、宿直の看護師がベッドそばで淳一に声を掛けている。
「淳一君、ゆっくり大きく息をして」と看護師は淳一の顔を触った。
淳一はうっすらと目を開け、苦しげな呼吸を繰り返している。
「淳、どうした」と私。
「淳、しっかりして」と妻。
看護師は一旦病室を出ていく。
すぐにチュウブを持って、もうひとり看護師を連れて入ってくる。
ピッピッピッ。
突然、足の親指に付けているパルスオキシメーター(血中酸素濃度測定器)が鳴り出した。
血液中の酸素が不足しているのを知らせているのだ。
通常は95から100の数値を示している。
80を下降し、70まで下がっている。
立っている私は下半身から力が抜け、身体全体がすーっと冷たくなった。
「淳一君、ゆっくりと深呼吸して」
看護師が淳一に顔を近づけて言う。
淳一は必死で呼吸をしている。
こちらの声は聞こえているようだ。
パルスオキシメーターは一旦鳴りやんだ。
「先生、呼んできて」
看護師がもうひとりの看護師に叫ぶ。
亜由美が「赤いワゴンは止めてね」と出ていく看護師に声を掛けた。
赤いワゴンは緊急の時に使う道具が入っているもので、重症患者の個室の前に置かれているのを何度か見たことがあった。
それが置かれた病室の患者はいずれもしばらくして亡くなっていた。
ピッピッピッ。
パルスオキシメーターが再び鳴り出した。
「淳、起きて」
「淳一、頑張れ」
亜由美と妻の絶叫する声が病室に響く。
「淳君、大きく息をして」と看護師は叫ぶように言う。
そして、チュウブの管を淳一の口に入れて、気管に溜まったタンを取り除こうとする。
淳一は微かに息をしている。
若いK医師が看護師と病室に入ってくる。
聴診器を胸に当てる。
みんなが黙って、K医師の動作を食い入るように見ている。
病室は一瞬静かになったが、パルスオキシメーターだけがピッピッピッと規則正しく、機械音を刻んでいる。
「淳一君、頑張って呼吸をして」
K医師が淳一の顔にぴったりと近づいて言う。
KA医師や見慣れた看護師たちが入れ替わり立ち替わり、病室に入ってくる。
K医師とKA医師がチュウブを挿入してタンを取り除こうとする。
淳一は薄目を開けたまま、まったく瞬きしない。
パルスオキシメーターの数値が50を切り、どんどんと数値が下降していく。
無慈悲な朝日が容赦なく病室に入り込んで、淳一の顔あたりに突き刺さっている。
目を開けたままでは眩しいだろうと、看護師のひとりが湿ったガーゼを淳一の目にかぶせた。
「淳一、起きて」
「淳、頑張れ」
「淳一君、頑張って息をして」
妻と亜由美が淳一の足や手をさすりながら絶叫し、その声に看護師たちの声が重なる。
淳一の身体は抗ガン剤の副作用で黒く変色し、足は骨と皮だけになっている。
しかし、温かかった。
まだ、生きている人間の熱を発している。
私は立ちすくみ、淳一の足をさすりながら、「淳、起きろ」「淳、頑張れ」と叫ぶ。
目の前の出来事が現実のことだと思えない。
今、何が起こっていて何をしなければならないのか、判らない。
ただ、去ろうとしているものを引き留めなければならないことだけは判る。
オンコロジストのO医師も病室に現れた。
パルスオキシメーターの数値はゼロに近づいていた。
医師たちも、この世から遠ざかっていく淳一を引き留める方法は無かった。
K医師がぴったりと顔を付けて、淳一に声を掛けていた。
妻が淳一の手をボールに当てる。
「淳一、またバスケットするのやろ」
「淳、ボールを持って」
妻も亜由美も私も、それに看護師たちも涙声で叫ぶ。
K医師が聴診器を胸に当てる。
淳一の呼吸は完全に止まっているようだ。
「T先生はまだですか」
亜由美が言う。
「こちらに向かっているから。もうすぐ、着きます」と看護師が応えた。
7時45分、担当のT医師が入ってきた。
「ごめんね。遅れて」
他の医師や看護師たちがT医師のために通路を開けた。
T医師は淳一のベッドに近づき、聴診器を淳一の胸に当てた。
そして、ペンライトで瞳孔を見る。
みんなが沈黙し、その儀式を見守っている。
しばらくして、腕時計を確認し、「7時53分、亡くなられました。残念ですが」と静かに言った。
「元気になって、バスケットするって言ってたのに」
亜由美が絞り出すように言うと、声を出して泣いた。
妻はまだ温かい淳一の身体にすがって、泣いている。
看護師たちも泣いている。
私は呆然と立ちつくし、涙を流していた。
「遅くなって、ごめんなさいね」とT医師が言う。
医師や看護師たちが慌ただしく、病室を出入りする。
小児外科のK医師が現れて、神妙な表情でお悔やみを言った。
看護師がパルスオキシメーターを淳一の親指から外し電源を切り、点滴の管がすべて外された。
つらく長い1年間の闘病が終わった。
看護師が薄目を開けている淳一の目を閉じさせようとするのだが、何度試みても淳一の目はうっすらと開いたままだった。
「もう、ツライ思いをせんでもいいから。ゆっくりと休みね」と妻が呟いた。
8時過ぎ義母が病室に現れ、変わり果てた淳一を見て、「ええっ、ウソでしょ」と叫び、すがりついて号泣した。
揺り動かすと、今にも目を開けそうだった。
動かないことが不思議だった。
笑ったり、泣いたり、怒ったりしていた感情は一体、どこへ行ってしまったのだろうか。
動かなくなった肉体とともに、感情も消えて無くなったのだろうか。
それとも、この病室の空間をさまよいながら、天井の隅から私たちを見ているのだろうか。
妻が携帯電話で、いとこのMさんへ連絡をとる。
Mさんは葬儀社のB社に勤めていて、私はそこの会員になっていた。
私の自宅から歩いて3分程のところにはB社の葬儀会館があった。
「大変やったな」
妻から携帯電話を受け取ると、Mさんの涙声が聞こえてくる。
「後の段取りは任せとき。全部、ちゃんとしたるから」とMさんが力強く言う。
身内の葬式が初めてだった私にとって、その言葉は心強かった。
「すぐ、迎えの車を手配するから」とMさんは言って、電話を切った。
それから、妻は学校の担任にも連絡を取っていた。
「お父さん、お母さん、落ち着かれたらカンファレンスルームへ来て下さい」
T医師が小声で言う。
20分程経って、妻と私はカンファレンスルームに入った。
「大丈夫ですか」
T医師はいつものように、ピンと背筋を張って座っている。
気丈に振る舞おうとしているようだったが、目は少し充血し潤んでいた。
「遅れてすみませんでした」
と言ってから、改めてこれまでの治療経過を話し始めた。
今までこのカンファレンスルームで説明されていた事を、早送りの録音テープで聞かされているようだった。
声は心なしかうわずって聞こえた。
話の最後に、献体のことを遠慮がちに付け加えた。
今後の研究に役立てるために、遺体を解剖することの申し出だった。
20年以上前、阪大病院で亡くなった義父は献体した。
葬式で私が義父の遺体を抱えた時、背中のあたりがえぐれていて空洞になっているのが手の感触で判った。
それに恐ろしく軽かった。
遺体は外見を残しているものの、ほとんどの内臓が研究のため取り除かれていた。
それを知ってから、妻は死亡解剖に嫌悪感を抱くようになったようだ。
私はというと、魂のない肉体に対してさして執着は無かった。
臓器移植にも抵抗がなく、死んだら心臓でも腎臓でも角膜でも移植して貰ったら良いと考えていた。
私が臓器移植のドナーに登録した時も、妻は少し首を傾げていた。
死生観や肉体に対する考えの違いなのだろう。
とはいえ、私はいざ息子の遺体を前にすると、献体することに戸惑っている。
日頃の考えとは違い、研究のためとはいえ、とても解剖を承諾する気持ちにはなれなかった。
T医師は「無理にとは言いませんから」と付け加え、妻が「それはちょっと」と首を振ると、「ハイ、判りました」とあっさりと応え、それ以上求めなかった。
すぐに話を切り替え、「このあと、1階の霊安室にお運びします」と、その後の予定を簡単に説明した。
病室に戻ると、子供の看護で泊まっている顔見知りの母親たちが集まっていた。
病院での寝泊まりを繰り返していた亜由美と妻は、たくさんの親たちと親しくなっていた。
「なんで急に」と言って、妻と肩を抱き合って泣いた。
同じ病気の子供を持つ親たちにとって、人ごとでは無い。
常に死と隣り合わせで生活している。
今私たちが置かれている状況を、近い将来経験するかもしれないのだ。
病室では二人の看護師が淳一の身体を拭いてくれていた。
改めて動かなくなった淳一の全身を見せられる。
色の白かった子供だったが、化学治療で黒ずんでいて、おむつ姿が痛々しい。
胸に取りつけられたIVHが外された。
闘病中、抗ガン剤や栄養剤などがここから淳一の身体に流され続けたが、その役割を終えた。
午前9時になるのを見計らって、私は京都営業所へ連絡を入れ、千恵子叔母さんにも電話を入れた。
妻も親しくしている友人や別府の親戚たちに、淳一の死を知らせていた。
慌ただしく、病室を空ける準備が進む。
1階から荷押し車を持ってきて、生活道具を押し込んだ。
しばらくすると、中学の学級担任M先生、バスケットのM監督とF先生が弔問に訪れた。
学校から急いで来た様子で、ポロシャツとジャージ姿だった。
バスケットボールを抱いて静かに目を閉じている淳一を見ると、3人ともハンカチで涙を拭っていた。
「急なことで驚きました。また、バスケットしたいって、言ってたのに…」
バスケットクラブの監督Mさんが涙声で言う。
「金ちゃん、つらかったやろう。よく頑張ったな」
担任のM先生が淳一の手を触りながら、声を掛けた。
そして、「学校関係には連絡しておきますから」と告げ、学校へ戻っていった。
身体を拭き終わるとストレッチャーに乗せ、病棟の北側にある職員用のエレベーターで1階の霊安室に運んだ。
祭壇の前に淳一は横たわり、焼香の準備が整った。
医師、看護師など病院関係者、そして病気で闘っている子供の親たちが次々と焼香に現れ、霊安室の前に長い列が出来た。
よく知った人もあれば、全く知らない人もお悔やみに現れた。
私たちの知らないところで、淳一の病気に関わっていた人が多くいたようだ。
私たちはひとりひとりに丁寧に頭を下げた。
葬儀屋の車が霊安室横の入り口近くに横付けされると、葬儀屋さんの男たちが白いシーツでくるまれた淳一を車に運び入れる。
車の回りを医師、看護師たちが取り囲んだ。
「本当に、お世話になりました」と挨拶し、私たちは深く頭を下げた。
葬儀屋の車には妻が乗り、私は荷物でいっぱいになった車に乗り込んだ。
亜由美と義母はタクシーで自宅に向かった。
昨年の9月27日に淳一を連れてこの病院を訪れてから、1年が経とうとしていた。
長いつらい日々を送った病院がバックミラーで小さくなり、遠ざかっていった。
淳一が乗る葬儀屋の車に付いて、国道171号線を走った。
六甲の山々を借景にして、初秋の透き通った青空が広がっていた。
不思議と悲しい気持ちが消えていた。
呼吸困難に陥った時から病院を出るまで、慌ただしく時間が過ぎた。
何が起こっているのか落ち着いて考える間も無く、ベルトコンベアーに乗せられているように物事が進んでいった。
そして、もう淳一が苦しい思いをしないで済むという気持ちとともに、通夜や葬儀の段取りで頭がいっぱいになっていた。
淳一がこの世から居なくなってしまったという実感が全く湧いてこない。
喪失感とか寂寥感とかいうものは葬儀が終わってしばらくしてから、徐々に襲ってくるのだった。
12時前、自宅に着いた。
2階の和室を安置場所に決め、外泊の時いつも寝ていた場所に北側を枕にして蒲団を敷いた。
葬儀屋さんの男二人が淳一を運び上げるのに、狭い階段で手間取っていた。
私が頭を持ち上げるのを手伝って、ようやく2階へと運んだ。
叔母さんよりもかなり軽く感じられた。
枕元に祭壇を造っている間、私と妻は知り合いに電話を入れていた。
親しくしている近所の人たちが弔問に訪れ、変わり果てた淳一の横に座って大粒の涙を流していた。
親戚よりも淳一のことをよく知っていた人たちだった。
小さい頃からこの近所の人たちに可愛がられて育ってきたのだ。
昼過ぎ、葬儀屋さんの担当者二人といとこのMさんが現れて、リビングのテーブルで打ち合わせとなった。
使用する葬儀会館は家から歩いて5分程度のところにある。
担当者のふたりはその会館から来ていた。
日程を決めたあと、いきなり宗派のことで手間取った。
情けないことに家の宗派が何であるか知らなかった。
「浄土真宗やと思いますが」と私が曖昧な記憶で応えると、となりに座っている妻が「浄土宗」じゃないかと言う。
岐阜の父に電話を入れ確認するが、父も父で「浄土真宗と違うかな」と頼りない返事をする。
結局、15年前に亡くなった叔父さん(父の弟)の奥さんに電話を入れて確認すると、「浄土宗」と判った。
「お寺さんは決まっていますか」と言われ、決まっていないというと、葬儀屋さんのほうで手配してくれることになった。
今度は「お坊さんは何人にされますか」と訊く。
「何人とは」と聞き返すと、「お導師さんひとりに脇導師さんがふたり付く場合があります。お導師さんひとりだけの場合もありますし、脇導師さんがひとり付く場合もあります」と担当さんが応える。
ひとりかふたりか三人かと訊かれ、ひとりだけでは惨めな感じがするので、真ん中を取って「そしたら、ふたりでお願いします」と応えた。
その後、担当の一人が写真を並べたファイルブックを見せながらそれぞれの項目について決めていき、もう一人がノーカーボンの申し込み用紙に決めた内容を値段とともに書き入れていく。
隣の椅子で、身長180cmの大柄なMさんがどかんと座って、口を挟む。
Mさんは所長をしていて、担当者たちとは営業所が違っているものの上司に当たる。
親戚のMさんが頻繁に横から口を挟むので、担当者たちはやりにくそうだった。
祭壇、祭壇花、棺、写真、ドライアイス、受付セット、出棺バス、骨上バス、司会、通夜と葬儀のコンパニオン、礼状、粗供養品など、次々と決めた金額を書き入れていく。
時折、「それはサービスやな」とMさんが口を挟むと、担当者さんが金額の横にサービスと書き入れた。
Mさんは微妙な立場だった。
私たちのために出来るだけ安くしようとしているようだが、そうかといって上司の立場もありそうそうサービスにする訳にはいかない様子だった。
すべて、「…はどうされますか」と担当者が言うので、私が「普通はどうなんですか」と訊ね、「通常はこのくらいのものをされますね」と応え、「それじゃ、それでお願いします」と言って進んでいく。
棺の種類も上中下の3種類あって、上はいかにも厳かな刺繍がほどこしてあり、下はただの木箱みたいだった。
ほとんどの人が会員価格50000円の「中」を選ぶのだろう。
湯灌という項目があった。
遺体を洗い清める作業のことなのだが、すでに病院で看護師たちが丁寧に拭いてくれていた。
「病院でしてもらったから、もういいんじゃないの」と、横に座っている妻が言う。
50,000円の金額よりも、妻は淳一の遺体を再び他人の前で晒すのが嫌な様子だった。
「そうやな」と私がうなずくと、「普通はされますよ。これは儀式ですし、病院でするのとは違います」と担当者さんが言う。
「でも、もういらんのと違う」と珍しく妻が食い下がった。
少し沈黙が流れた後、「されたほうがいいと思いますよ」と担当者が再び丁寧な口調でいう。
「もうええやん。しといてもらおう」と私が投げやりにいうと、妻がうなずき、担当者は金額を書き入れた。
打ち合わせをしている時もひっきりなしに電話が掛かり、弔問客が訪れてくる。
その度に、私と妻は席を外して、打ち合わせが中断した。
慌ただしさの内に長々と進められる話に、半ば面倒臭くなってくる。
「細かいことは任せるから、適当にしてくれ」という気持ちだった。
金銭感覚より息子の葬式だから恥ずかしいことはしたくないという見栄が勝っていた。
合計金額が300万を超えているのを見た時、「ええ、こんなに掛かるのか」と思うと同時に、「こんなもんなんやろうな」と納得するのだった。
早く終えたい気持ちで、再度見直す気持ちが失せていた。
「香典は拝受されますか」と訊かれると、私は辞退しますと応えた。
最近、会社関係の葬式では辞退することが多かった。
それに、弔問客は学校関係者や中学生の子供が多いだろうし、香典の出費を気にすること無く、たくさんの人に来て貰いたかった。
「大丈夫か」とMさんが心配そうな顔をしていた。
心配げな表情の意味がすぐに判った。
葬儀に掛かる費用はそれだけでは無かった。
「お坊さんへのお布施はいくらぐらいしたらいいのですか」の質問に、「決まっている訳でもないけどな、気持ちやから。通常、導師さんは35万、脇導師さんは15万やな」とMさんは言い、担当者もうなずく。
金銭感覚が薄れているとはいえ、私は思わず聞き間違いじゃないかと思い、「えっ、35万と15万ですか」と聞き返した。
通常そうだと言われると、また「こんなもんなんやろな」と納得してしまう。
息子の葬式になんと女々しいことをと思われそうで、「やっぱり、脇導師さんはいりません」と言い出せなかった。
この時不安があるものの、費用の心配はほとんど頭に無かった。
とにかく、お金のことは考えないようにしていた。
定期預金や株を売ったら、何とかなるだろうと思っていた。
しかし、この時私は葬儀屋が指定した支払日の20日を、どういう訳か1週間後の金曜日と勘違いしていたのだ。
後で、葬式の2日後と判って、慌てることになる。
取りあえず、打ち合わせが終わると、近くの銀行で当面のお金を下ろし、ネットで株を二銘柄と投資信託に売り注文を出した。
でも、それらはすぐに換金出来ないものだ。
夕方から、バスケット仲間や学校の先生、近所の人、続々と弔問に訪れた。
みんなが帰って落ち着いたのが、12時を過ぎていた。
最後の外泊と同様、淳一の側に蒲団を敷き、家族で横になった。
淳一も疲れて眠っているかのようだ。
顔を近づけると、今にも寝息が聞こえてきそうだった。
弔問客を迎える慌ただしさの中に紛れていた淋しさがこみ上げてくる。
眠ったのかどうか判らない夜だった。
夜明け頃からぼんやりして、これからの段取りに頭を巡らせた。
7時に起床し、岐阜の姉や親戚に連絡する。
9時頃、葬儀屋の担当のひとりKさんに判らないことを確認するため、携帯に電話を入れる。
すぐに家までやってきてくれた。
Kさんは誠実な人柄で、仏事に慣れていない私の質問に丁寧に応えてくれる。
午前中、近所の弔問客や義母の知人たちが訪れ、朝早く岐阜を出た姉が娘を二人連れて到着した。
弔問客でごった返す中、隣りのMさんがカレーを作って持ってきてくれた。
落ち着いて食事が出来ないので、簡単に掛けて食べられるカレーは役に立った。
線香が立ちこめる部屋に、カレーの香りが漂っていた。
午後1時、葬儀屋に紹介してもらったお坊さんがやって来た。
がっちりとした体格のお坊さんはどこか冷ややかな印象だったが、話すと穏やかで優しい口調だった。
病で亡くなった事を告げると、「私も同じ年頃の息子がいますので」と神妙な表情になった。
お坊さんのいるお寺「成仏寺」は川西から車で1時間近く走った山峡のお寺で、もう少し走ると丹波の篠山だった。
我が家からは車で1時間半以上掛かった場所にあった。
30分程度枕経を唱えて、軽自動車で帰っていった。
午後2時に湯灌の儀式が始まった。
専門のスタッフが1階のリビングに携帯用の風呂桶を置いて、ホースで湯を入れた。
淳一を2階から降ろして、着せていたバスケットのユニフォームを脱がせて、風呂へ浸ける。
淳一はシャワーで湯を掛けてもらい、気持ちよさそうに横たわっている。
ふたりの女の人が手慣れた手つきで、ガリガリに痩せこけた淳一の身体を丁寧に洗ってくれた。
そして、みんなが交替で足元から胸元に水をかける「逆さ水の儀式」をして、湯灌が終わった。
15時から納棺の儀式と続く。
淳一は白いバスケットのユニフォームを着せられ、棺の中へ入った。
供花とともに、バスケットの雑誌、Tシャツ、亜由美が作ったぬいぐくみなどを一緒に入れ、最後に私が木の杖を入れて納棺は終わる。
16時過ぎ、棺は葬儀会館へ向けて自宅を出た。
車で走れば3分程度で着くのだが、遠回りしてM中学の前を通ってもらった。
学校の校門ではバスケットの後輩たちが練習を中断して整列し、試合でよく聞いた応援のエールで見送ってくれた。
寒い日も暑い日も、懸命にバスケットボールを追いかけていた体育館の横を通って、葬儀会館へ向かった。
一番広い会場ではたくさん菊の花が並べられ、りっぱな祭壇が出来上がっていた。
中央の大きな遺影は最後の家族旅行となった境港の商店街で撮ったものだ。
ゲゲゲの鬼太郎の銅像横で亜由美と並んで撮影した写真だった。
笑みを浮かべているようでもあり、悲しんでいるようにも見える。
祭壇の左横には想い出の品々や写真集、バスケットシューズなどが置かれていた。
通夜の時間が近づくにつれ、親戚や知り合いが続々と到着した。
慌ただしく挨拶をし、座席の位置を決めた。
学校関係や会社関係の人、友人たちがやってくる。
私は涙ながらに挨拶しているものの、葬儀の緊張の中で流す涙は儀礼的で、亡くなった時に味わった締め付けるような悲しみではなかった。
供花を並べる順番や座席の位置を頻繁に訊ねられて指示し、司会と打ち合わせをし、頭の中で喪主の挨拶を考えなければならない。
正直なところ、悲しんでいる余裕が無かった。
導師さんが到着すると、控え室まで脇導師の分とふたつに分けたお布施を持っていった。
導師さんが紹介した脇導師さんは30歳前後の息子さんだった。
挨拶をしながらお布施を渡す時、ふと、導師さんひとりでもよかったかなと思ってしまう。
19時、通夜が始まった。
すごい人だった。
入り口付近がカッターシャツ姿の学生たちで溢れている。
同級生たち、バスケットの仲間、バスケットで闘った他校の生徒、、少年バレーの時の父兄と子供、それに病院での知り合いや会社関係の人たちが加わっていた。
弔問客は171号線や尼宝線沿いの歩道を埋め尽くしていた。
300個用意していた粗供養が600を超えたため、会館が予備に置いていた供養の品を用立ててくれた。
読経の後の焼香が長引き、1時間の予定が2時間近くに及んだ。
通夜が終わった後、M中学の校長先生や教頭先生が中心となって、卒業式をしてくれた。
親族たちが揃って写真撮影をするとき、正ちゃん叔父さんが私のところへやってきた。
「幸くん、こんな立派なお葬式は始めてや。すごい人やったな。ビデオ持ってきたら良かったな、思ってな。それでな、明日の葬式、ちょっと撮らせてくれないか」と遠慮がちに言う。
どうやら、親戚のみんなからビデオ撮影を禁じられているのだった。
「もう、止めとき、ウロウロされたら、みんな迷惑するんやから」と正ちゃん叔父さんの奥さんが横から口を挟み、千恵ちゃん叔母さんが相づちを打つ。
「席に座って写すだけやからな。こんな立派な葬式、写さな、もったいないでな」
拒む気持ちは全く無かった私が「かまへんで。写してくれたら」と応えると、「そうか、そしたら明日カメラ持ってくるから」と正ちゃん叔父さんは嬉しそう笑みを浮かべていた。
「もう、座った席から写すだけやで」と奥さんが念を押していた。
通夜が終わってもバスケットの仲間や同窓生たちがたくさん残り、棺の側で集まって話をしていた。
連休前の土曜日だったこともあり、みんななかなか帰らなかった。
中学を卒業してそれぞれが違った高校へ進学していたので、同窓会のような雰囲気になっていたようだ。
徐々に人が帰宅し、式場が静かになったのは午後11時頃だった。
母を車に乗せて岐阜から来た父や姉は私の家に泊まり、会館には私たち家族の他に別府から来た義母の兄弟4人とバスケット仲間のK君とM君が残った。
かなり疲れていたが、まだしなければならないことが残っていた。
慌ただしさでまともな食事を摂っていなかった私たちは、会場横にある和室で少し寿司をつまんだ。
ひっそりとした会館で弔電の整理をしたり、焼香の順番を確認したりして、午前2時過ぎに少し畳で横になった。
義母の一番下の弟になる和己ちゃんが夜通し眠ることなく、妻や亜由美と線香の番をしていた。
和己ちゃんは義母と腹違いの弟にあたり、私よりも2つほど年下になる。
和己ちゃんは一時私の家の近くに住んでいたことがあり、幼い淳一をよく可愛がってくれた。
若い頃腎臓を悪くし、30年近く人口透析を繰り返している。
2日ごとに透析をしなければならないので、九州を出発する直前に透析し、すぐに飛行機に乗って来た。
顔色はどす黒く変色し、まぶたが浮腫んでいる。
「わしが代わってやったら良かったんやがなぁ」と線香を替えながら呟いていた。
少し眠ってしまった。
時計は午前5時を指していた。
会場は煌々と蛍光灯が灯り、菊で飾られた祭壇の遺影はどこか淋しそうだった。
棺の淳一は相変わらず目を閉じて、静かだ。
ジッと見ていると、瞬きをしそうだった。
妻はぼんやりと遺影を見ており、亜由美が椅子で座ったまま微睡んでいる様子だった。
K君とM君は並べられた椅子で横になって眠っていた。
「目、覚めたか」
和己ちゃんがむっくりと起きてくる。
さらにまぶたが浮腫んでいた。
血液中の毒素が尿として排出されないため、老廃物が血液中に溜まって、全身の皮膚が浮腫んでくるのだ。
健康な人よりかなり疲れが残っているはずだ。
それでもしわがれた老人のような手で、小さくなった線香を新しいものに替えていた。
私は会館の外へ出た。
まだ薄暗く、外気はひんやりしている。
イズミヤの横を通り抜け、家まで歩いた。
駐車場まで来ると、ここで淳一とキャッチボールをしていてガードマンに怒られたことを思い出した。
家では姉と姪が2階で寝ており、1階に父と母が寝ていた。
私が部屋のリビングに入ると、父はいびきをかいてぐっすりと眠っていた。
母はとなりの部屋のベッドで寝かされていた。
ベッドに近づき、「お母ちゃん」と声を掛けた。
わずかに目を開けていた。
母は動くことも出来ず、声も出せない。
「お母ちゃん、淳一、死んでしもた。お母ちゃん、可愛がっとったのにな」
わずかに表情が変わった。
母は話すことが出来ないだけで、こちらの言っていることは理解しているようだった。
「何でこんなことになってしもたんやろな。京都の叔母ちゃんも死んでしもたしな」
母はううんとわずかにうなった。
あっさりとこの世から去っていった淳一と叔母さん、そして、寝かされた状態のままで生き続ける母。
「つらいやろうけど、生きれるだけ生きなしょうがないな。これも運命やもんな。なあ、お母ちゃん」
しばらくそばにいると、母は眠ってしまった。
午前11時に葬儀が始まった。
通夜のように会葬者が多くなって式が長引くと、斎場での時間に間に合わなくなるため、焼香の数が増やされた。
しかし、心配していたほどでもなく、会葬者は通夜の時の半分にも満たなかった。
式は時間通りに進んだ。
最後の別れになり、棺の中に菊の花とともにバスケットの本やリストバンドなど、思い出の品を入れた。
淳一が良く聴いていたDefTechの「マイウェイ」が流れる中、妻が遺影を、私が位牌を持って車に乗り込み、阪急伊丹駅近くの斎場へ向かった。
淳一の魂が入っていた肉体は数千度の熱で焼かれ、粉々になり、わずかな骨だけが残る。
肉体はただの入れ物だ。
魂の入っていた箱なのだ。
そう思っていても、焼却機の中に棺が入れられると、新たな悲しみがこみ上げてくる。
会館に戻りお膳上げをした後、再び斎場へ行き14時30分に収骨。
変わり果てた淳一は大きな骨壺と小さな骨壺に分けて入れられた。
15時から会館3階にある会場で、初七日の法要を行われた。
法要が始まる前、丹波に住む福ちゃん叔父さんが私のそばに来て言う。
「幸雄くん、浄土宗というのはな、南無阿弥陀仏を10回唱えるのやで。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏って、8回唱えるじゃろ、それから一息ついて、なむあみだぁ〜ぶ〜つ、なぁ〜むあみ〜だ〜ぶつぅ〜、って、ゆっくりと2回唱えるんやで」
葬式が終わってホッとした気持ちになっていた私は「へぇ、そう。一息ついてから、なむあみだぁ〜ぶ〜つ、なぁ〜むあみ〜だ〜ぶつぅ〜と唱えたらええんやな」と、叔父さんの助言に気軽に応対していた。
その横で、正ちゃん叔父さんが席に座って、相変わらずカメラを回していた。
16時、すべてが終わって自宅に戻った。
翌日の敬老の日、ゆっくりと起き出し、書類の整理や支払いの計算やらで一日過ごした。
バスケット仲間のKくんとMくんがやって来て、淳一の遺骨の前でテレビゲームをしていた。
時折、弔問客がやってきた。
9月20日、朝から郵便局や銀行へ行き金をかき集めた。
昼から葬儀屋さんが集金に来るからである。
粗供養やお膳の費用などがかさみ、総額は400万を超えていた。
株や投資信託で売った金がすぐに換金出来ないので、不足分は亜由美の貯金から借りることになった。
香典を辞退したとはいえ、親戚や親しい知り合いからは香典を頂いたこともあって、ぎりぎり用立てることが出来た。
葬儀屋は1時過ぎにやって来て、100万の束を丁寧に数えていた。
淳一の教育費として貯めていたお金は淳一自身の葬式代に消えてしまった。
昼から学校関係の挨拶回りをし、最後にウランが貰われていった亜由美の友人宅を訪ねた。
久しぶりにウランに会った。
「ウラン、元気にしてるか」
すり寄ってきたが、すぐに家の中へ入ろうとする。
ウランは友人の家族に可愛がられ、もうすっかり、この家の住人になっている。
「じゃ、ウラン、元気でな」と言って、抱かれているウランに別れを告げた。
家に戻る途中、昆陽池公園の木々が見えてきた。
おぼろげな記憶の切れ端が胸の奥深くからせり上がってきた。
「小さいとき、ここでよく遊ばせたな」
私はぽつりと言った。
そして、天神川に沿った道へ入るため、車のハンドルを右に切った。
2006年9月16日了
コオモリ
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